2012年2月29日水曜日

東日本復興支援チャリティーコンサート(合唱)に参加         於;伊勢原市民文化センター大ホール



 平成24(2012)年2月26日(日)、4合唱団によるチャリティーコンサートが開催され、伊勢原男声合唱団「マイスタージンガー」に所属する当サイトブロガ―のsaiseigo1も参加しました。
 「マイスタージ
ンガー」は7曲歌いましたがその内の3曲は東北地方の民謡でした。被災地の民謡を歌う事には様々な議論のあるところでしょうが民謡は住民の方々が古くから自慢の土地柄を誇らしく歌って来たふるさとの歌です。(写真)
 saiseigo1は今度も、直接の被災地ではないが、故郷である山形の「最上川舟歌」の掛け声をやらせていただきましたが、「斉太郎節」は被災地の松島湾を歌った民謡で、中学校の修学旅行先でした。「斉太郎節」はさらに北の「南部鉄」を打つ時の仕事歌が原型で、「斉太郎」はその鉄打ちの名人の名とも言われています。
 また、「会津磐梯山」は江戸期、金山でもあり、豊かな資源を誇っていた地域でもあります。
 そんなこんなで、様々な被害から早く立ちあがって欲しいと願い、一生懸命歌いました。義捐金も沢山寄せられたと聞いています。
 もう一つ、驚きと感動で胸の鼓動が高まったのは、「舌ガン仲間?」の、まだ若きシンガー・ソングライター、「前山隆弘さん」の来場と再会でした。
 8年ほど前、私は舌ガンで舌の半分を切除し、発音のリハビリとしてボイストレーニングを受けたのが契機で合唱団に加入。その後、同じ「舌ガン」を克服したシンガーとして紹介されていた「前山隆弘さん」の新聞記事をみて、ブログで交信。前山さんの「ライブ」などにも出かけ、合唱団の発表会にも来ていただくなど、お互いに励まし合った。その時は地域のマスコミ(TVKや神奈川新聞)にも取り上げてもらった。
 その彼が、今年の年頭のブログで「今、精神的に落ち込んでいて、歌手活動はしていない。」事を知り、何とか力を上げたいと思い、今回のチャリティーコンサートのチラシを送信。「是非、行きたい!」と返信を頂いたが住居が東京なので来てはくれないと思っていた。
 その彼が、可愛い彼女?と同伴で、ロビーで待っていてくれた。
 私は打ち上げを断り、妻を呼び寄せ、駅前の居酒屋で、4人で3時間も語り合った。私は若い二人を前に、妻の顰蹙
を覚悟で、舌が疲れるほどしゃべりまくった。
 前山さんは新聞報道後、仲間と全国でライブを続け、当時の話題の映画「イキガミ」の主題歌なども歌ってきたが頑張りすぎて疲れてしまい、3年ほど前から、行方を失い、介護施設で働いていると云う。一緒に来ていた若い女性の話によると「彼は優しいので、人気者」だと云う。さもありなん。
 「そう云えば、私も同じである。」と彼に伝えた。ここ2年ばかり、障害者施設の訪問コンサートをやりたくて、チャンスをうかがっていたが仲間ができ、今年、2ヶ所で実施出来た。まだ、一ヶ所残っているが気力が出ない。同じ心境であろうか。
 彼は3月で施設を辞め、新しい道を探ると云う。どんな道か、聞かなかったが音楽の道は諦めていない口ぶりであった。私も春になったら、もう一度仲間を集めることを約束して別れた。
 彼の今後のブログ「前山隆弘のmae日記」に注目したい。
 写真は居酒屋で撮った二人である。優しい表情をしているでしょ!!


    

 
 

2012年2月24日金曜日

下平間台地より野陣台を望む


先日、スーパー「たかよし」からの返り道、老人施設「ほほえみの丘」近辺から見えた「野陣台」にハッとさせられた。我が家のある住宅群の向うに、はっきりと野陣台が見える。これが伊勢原台地なんだと認識できた。それがこの写真である。
今まで、野陣台から四方を見てきたがこの方角からの眺望は初めてである。気がつかなかったと言っていい。
手前に見える緑色の屋根は旬菜食健「ひな野」である。その向こうの四角い建物は「朝日新聞店」。走っている道路は「平塚伊勢原線」。新聞屋から右の路地を入れば私たちの自治会地区「馬渡25区」で、かつて「天神下」と呼ばれていた地域。命名は菅原神社の下にあったからであろう。
この住宅地を越えて、平らな台地がある。ここが「野陣台」。その向こうは岡崎城跡「無量寺」へと続く。
確かに、ここに城を建てたい気分になる。
また、将来、この景色は何時まで続くであろうか!?

2012年2月11日土曜日

大山道新道に藤沢四ッ谷の「大山道道標」が移設

平成24年2月10日(金)のタウンニュースで、『大山道を辿って・・・藤沢から350年前の道標 修復して設置』というトップ見出しが直ぐ目に着いた。

 「大山へと続く子易地区の大山新道沿いに1月31日、藤沢市城南の四ッ谷不動に江戸時代から建っていた、大山道の『道標』が修復され移設された。同所の道標の再建に合わせ、大山阿夫利神社(目黒仁宮司)に保管されていたもので、市教育委員会によると、この道標は現存する大山道の道標のなかで最も古いもので貴重な資料だという。

早速、翌日、この移設された道標を撮影してきました。

場所は大山新道の、大山に向かって左側、二本の御柱が建っている場所。

この日は天気が良く、陰影が濃すぎて上手く撮影出来なかったが何とかパソコンで修正して見た。

記事の内容は次のとおり。

 『是より右大山みち』と書かれた道標ー。藤沢市の四ッ谷不動(=文末に解説)に建てられていたもので、高さは約27m、素材には静岡の小松石が使われている。造立は1661年(万治4年)と記されている。1835年(天保6年)に再建され、関東大震災などでも修理・再建されている。折損してしまっていたこともあり、四ッ谷不動で平成17年に新たな道標が再建される折に、大山阿夫利神社に保管されることになった。

その後、大山阿夫利神社と阿夫利睦(磯崎敬三会長)で再建を目指し、日向の秋山安太郎石材が道標を修復、このたび大山新道に再建された。この場所は大山道の属人道のすぐそばになるという。「道標を再建し、伝統を継承することは喜ばしいこと。後世にしっかりと伝えていきたい」と目黒宮司。また、磯崎会長は「歴史と伝統のある四ッ谷不動の道標。大切していきたい」と話した。

 大山への道を示しっづけて350年以上。時を経て初めて大山に来た道標。これからは大山の麓で観光客を迎える。

◆四ッ谷不動

 藤沢市内を走る国道1号線の四ッ谷交差点そばにある四ッ谷不動。東海道と大山道が交差する四ッ谷辻に1678年(延宝4年)に建てられたもの。すぐそばたは大山阿夫利神社一の鳥居もあり、大山詣でが盛んで、ここから田村通り大山道が始まる。また、『東海道七五十三次之内藤沢四ッ谷の立場』(歌川広重)などにも、賑わう当時の姿が描かれている。


2012年2月2日木曜日

「三陸文化復興プロジェクト」献本活動に参加

 東北大震災の影響で、あらゆる面で、壊滅的な打撃を受けた遠野町図書館では、被災地の文化復興の支援策として、書籍の寄贈運動を開始していました。これは、全国民に書籍を寄贈していただき、図書館や学校図書室に配備して、文化の復興を果たそうとする施策です。
 私も学生時代から、無い金を都合して買い集めた、大切な書籍があり、死後、紙くずとして廃棄されるのだろうと悲観していましたがこの復興策に便乗すれば、一部は何所かで利用されることになります。
 そこで、受け入れ不可の書籍もありましたので、目録を送り、受け入れ可能な書籍、150冊ほど送りました。しかし、歴史書のシリーズ物は受け入れ不可で、手元に残されましたが一昨日、受け入れ書と礼状が届きました。
 これで、ホッとしました。特に、「国史大系」14巻が遠野町の図書館に残されることになった事に感動しています。

「平成の大山街道、大山みち写真展」日程表と応募謝礼品頂戴しました


神奈川県やまなみ地区(伊勢原・厚木・秦野・愛川・清川)企画の「平成の大山街道、大山みち写真展」に応募していましたがその謝礼品として、大山道を描いた「手ぬぐい」を頂きました。一応、伊勢原市在住の私が応募しましたので、この地域以外の方にも贈呈されたようです。
 なお、同時に、展覧会の日程も送られてきました。お暇の時に観に行って下さい。賞はまだ付けられていませんが展覧会時には付けられていると思います。
 応募作品の中には、藤沢市の岩熊さんの津久井道再探坊の様子や世田谷、風人社の燈篭写真、その他埼玉からの大山眺望写真など貴重な作品があります。ご期待下さい。