2012年1月28日土曜日

「相模岡崎城跡の話」のプレゼン;さくらの家福祉農園オープンデー


 平成24年1月28日(土)1:30~15:30、法人福祉施設「さくらの家福祉農園」で、「岡崎城址の話」をプレゼンすることができました。
 このプレゼンは地域を知るための職員研修の一つでしたが、オープンデーとして一般開放して行われ、職員は当然ですが関係者や地域の方々も来園され、20人程集まって頂きました。
 会場には、今回のプレゼンの主役「ISEHARA・おもてなし隊」の原氏、西部氏の他、レクチュアーや資料提供、現地案内をして下さった市文化財課の諏訪間氏、さらに大山道の研究で何かと協力頂いている世田谷にある出版社「風人社」の編集員もご来場下さり、質の高いプレゼンをすることができました。
 皆さん、お集まり頂き、ありがとうございました。

2012年1月27日金曜日

雪の朝 「珍らしい大山眺望」


 平成24年1月24日、昨夜9時頃から降りだした雪で、街中真っ白になりました。
前日は午前中、曇。午後雨で散々なゴルフでしたがそれから雪になるとは思ってもいませんでした。
 9時半頃、陽も出、ようやく溶けだした雪の中を、レッスンに出掛ける途中、大山を見ると、頂上だけ雲がなく、輝いている。普段は雨を予測させるような雲をかぶった大山しか想像できないのでびっくりして、シャッターを押した。
 思ったより素晴らしい写真となった。

2012年1月16日月曜日

「相模岡崎城跡の話」のチラシが届きました。


 
「相模岡崎城跡」の話については、折に触れ書いてきましたがこの度、ようやく実現にこぎつけ、チラシも出来上がりました。
 もともと、小さな障害者法人施設の、地域との共生のための、職員研修の一環でしたが、折角なので「オープンデー」の催しとして、地域交流の一つとして取り組みたいと云う事で、話は少し大きくなりました。
 実際は、30名程しか入らない会議室が会場なので、関係者だけで一杯になります。
 話の内容については、3カ月ほどかけ、調査・研究を続け、現地で撮影した写真しか使ってないので、結果については自信があります。
 仲間と作っている「ISEHARA・おもてなし隊」の協力も得、市の文化財担当者の諏訪間氏のレクテュアと現地視察もしているので、かなり注目していただける内容になっていると思います。
 研修会終了後、また報告しますので、お気に召したら呼んで下さい。

2012年1月11日水曜日

旧石倉橋馴染みの道標写真が・・・・。


 古くから馴染まれていた旧石倉橋にあった大山道道標が移転されたから一年以上経つであろうか?地域の集会棟も壊され、今は新東名高速道路への誘導道路建設のための発掘調査も中盤に差し掛かっている。
 時々通る度に、何故か違和感を感じていたがそれも時間の問題であろう。昨夜、居間の書類棚からハラリと出てきた一枚の写真。セピア色の石倉橋の大山道道標写真。「ああ、こんなだったんだ!?」としばし眺めている内、遥か昔の話で、郷愁のようなものが湧いてきた。
 と云う事で、ここに掲載することにした。すっかり忘れてしまわないように・・・・。

2012年1月9日月曜日

相模岡崎城関係史跡再探訪ドライブ⑤・・・石橋山の源平両陣営の対峙谷と房総半島の眺望、そして、総世寺へ



石橋山の戦いで、源平両陣営はこの写真の場所で対峙したと云う。分かりにくいが写真の中央部が谷戸部になっていて、山部は東西に分かれる。
西は平家、東は関東武士が駆け付けた源氏。平家に組みした藤沢の大庭氏は何処にいたのだろうか。三浦党は酒匂川が洪水で渡れなく、戻ってしまう。
佐奈田神社から相模湾を見下ろすと遥か遠くに、房総半島がかすんで見える。
写真に延びている枝先辺りが「館山」である。                                              

                       


この日の最後の訪問地は、三浦義同が時高から逃れ、道寸となって出家した、小田原の大森氏縁の、久野にある「総世寺」。 
途中、早川港で昼食を済ませ、2時頃伊勢原に帰宅。予定通り終了した。運転してくれた諏訪間氏に感謝である。      

相模岡崎城関係史跡再探訪ドライブ④・・・石橋山の与一塚と文三堂から佐奈田神社へ

石橋山で源平両陣営が対峙した谷戸を越えて辺りに「与一塚と文三堂」があり、二人が祀られている。






















そこから一寸戻り、急な石段を登ると佐奈田神社である。階段には江戸火消しの石柱が並んでいる。諏訪間氏とM氏は「火消し講」が信者である事を盛んに不思議がっていた。この後、宮司に聞いていたが私は聞き洩らした。



 

相模岡崎城関係史跡再探訪ドライブ③・・・与一の討たれた場所は「ねじり畑」

この日、8日(日)岡崎神社から真田城跡を経て、第1国道から小田原を経て佐奈田神社に着いたのは11時頃か? 国道から右手の石橋山の中腹にある佐奈田神社 、駐車場に車を置いて、ここからは徒歩。みかん山の舗装された
農道に与一の「討たれた」という碑があった。(この辺りを「ねじり畑」と云うらしい。)
山の中腹の道端であるが当時は何も無い山中であったろう。
その後、家来の陶山文三が駆け付け、8人を討ち取ったと云う。


 そこを一寸進むと山手に30cm程の大きさで造られた石垣が続く。その中の一つに、周囲と馴染まない、2m程の大きな自然石がある。
 諏訪間氏の説明によれば、この辺りは江戸城の石垣用の石の採掘場で、採掘した石は傾斜を利用し転がし、海岸迄運んだと云う。そう云えば、山の傾斜にそんな風情の石があちこちにあった。
 しかし、感動したのは、その石に「四角」が掘ってあり、下の方に鏨を打ち込んだ跡があった事である。(岩石写真の中央部に四角がめるでしょう!?)  「もしかしたら江戸城の石垣用に掘りだされたのでは・・・?」と思っていたら、その通り、諏訪間氏は説明した。
感動である。
                   
 江戸城で見るなら感動などしない。ここで見たから感動である。
 岩石の事は詳しくないが甥っ子に住宅地の地震判定士がいる事や「大江戸検定試験」で江戸城の石垣は相模湾沿いの真鶴や熱海からの石が多く使われた事、そしてその石には提供した藩の刻印がある事や運搬用の運河の構築などを、「神奈川検定試験」では神奈川の良質の石と云えば「真鶴石」である事、いせはら歴史解説ボランティア講座では日向石を、箱根の地球博物館では丹沢・大山の凝灰岩の事などを学んだので、この石の刻印につては想像できた。
しかし、その作業途中の石を見る事ができた事には、まさに、いせはら歴アドと諏訪間氏に感謝である。だが、神奈川検定と大江戸検定の1級への挑戦には目覚めて来ない。

相模岡崎城関係史跡再探訪ドライブ②・・・真田城跡へ


















真田城は義實の嫡男与一に与えた城である。岡崎館から5,6km先の平塚市真田にある。現在城跡に岐阜からやって来たと云う天徳寺があり、真田明神と共に与一を祀っている。
この日はどなたか知らないがご老人が境内の掃除をされていた。その周りでではためいていたのは与一に関係する人々の幟。
 この時、喘息の神であると云う真田明神境内で話題なったのは二つ。
 一つは、喘息発作が出て、討ち返されたのに「何故、喘息を治す神様に祀り上げられたのか?」
 この回答は、「土地の偉人に託した大きな話題に便乗して、後世に名を残そうとしたのではなかろうか?」という説に反論なし。
 二つ目は、案内板の浮世絵(写真)に書いてある、抜刀された刀の位置。一寸見には与一の物にように見えるが与一の刀は鞘におさまっている。血糊で抜けなかったから当然。と云う事で、抜刀されている刀は俣野五郎のものに間違いないとの結論。
 それぞれ、看板横の力石を持ち上げる写真を撮って、次に移動。

相模岡崎城関係史跡再探訪ドライブ①・・・岡崎神社

「岡崎城の話」を纏めるに当たって、仕事始めの、1月4日(水)文化財課の諏訪間氏に電話で、プレゼンスのレクテュアを要望。即座に快諾を受け、5日、午前中2時間にわたって、細部の説明確認や資料の提供等頂く。
 特に、昭和60年に発刊された「相模岡崎城址総合調査書」以降の状況も納められた資料を提供された時は昂奮した。
 写真を見て頂きたい。不明であった地元の方の地名呼称もはっきり書いてある。
「これは、是非、当日の参加者に見て頂きたい。」と思い、自宅に借り受けている。 




 所で、その彼から、8日(日)に生家のある南足柄市に行く序に、「真田与一の討たれた場所に案内したいが・・。」と云う連絡があり、即座にOK。近所のM氏も同行。朝、9時に我が家に迎えに来ていただき、3人で勇んで出かける。

 諏訪間氏の案内ぶりは説明ポイントを徐行運転しながら、しゃべり(説明し)続けるという凄技。岡崎公民館での丁寧なご案内には恐縮した。手がけたいせはら歴史解説ボランティアの講座生への不安であろうか、それともより高き所への案内したい、という思いのためであろうか。

 手間暇かけての対応には、もはや役人を存在を越えている。お人柄もあろうがそのお人柄で救われた伊勢原の文化財が数多くあるのではなかろうかと思われる。
彼の時間外の活動は以前にも同行した事があるので、とても嬉しい反面、とても恐縮している。


 

彼の事はこれ位にして、岡崎神社の岡崎義實とその説明板等撮影。屋内には「新相模風土記稿」に書かれた絵図のタイル画があったので撮影して来た。

2012年1月3日火曜日

元旦・岡崎城西からの大山眺望


平成二十四年元旦、岡崎館跡の写真撮影を目的として、妻と岡崎神社に初詣。無量寺の裏の、曲輪跡から、入山瀬を通り、西海地に下りる途中、空掘の跡と思える場所から大山がよく見えた。思わず、撮影。ここは虎口近くだから、一族、郎党方には見なれた大山ではなかろうかと思われる。
 しかし、この辺りは、私たちは良く分からない。うろうろしていたら、行く手の高台に森が見えた。そのあたりを目指して歩くと王御住公園が見えた。現役の時、小田原養護学校職員と野球試合をやったので覚えている。
 と云って、そこからも分らない。後ろから、賑やかに家族連れがやってくる。良く見ると前の方にも家族連れ。皆、岡崎神社に初もうでに行くのだ。後をついてゆくと岡崎神社に到達。
 かつて、岡崎小学校の近くに住んでいたので、ようやくこの辺りの全体を理解できた。

 これで、1月28日(土)に予定されている「さくらの家福祉農園」の職員向けプレゼンス「岡崎城の話」の全取材が完了。安堵して、明日の箱根駅伝を視聴できる。

元旦