「DC」って何だ!
ウェブサイトで調べたら、JR各社と指定された自治体や地元の観光事業者等が協働で実施する大型観光キャンペーンのことだって。Destination(目的地・行き先)とCampaign(宣伝戦)の合成語。「DC」「デスキャン」と略されることがあるんだって・・・。
と言う事で、今回、JR東日本が山形県と協働して、山形県の観光キャンペーンをしているらしい。新聞の半面を使ったCMが2回も掲載されている。嬉しくなって良く見ると「置賜盆地」の事も載ってるではないか!
南陽市宮内の熊野神社。昭和20年代は宮内町の「熊野神社」だった。しかし、村から出たことが無かったので見たことが無かった。馴染んでいたのは大塚村の「熊野神社」だった。
高畠町の『草木塔』。これも有名ですね。「山川草木悉有仏性」。中国の高僧の教えだと思ったよ。しかし、思い出は、高畠町の洞窟から発見された縄文期の遺物ですね。12歳上の長兄と二人、自転車を駆って、見学に行ったのは昭和35年の夏休み。一番私を理解してくれた長兄だったが52才で死んじゃった。今は、甥っ子が家を継ぎ、お墓をきちんと守っていてくれる。安心だね。
置賜盆地の家々は、高校の教科書に出てくる「散村」で、皆、「屋敷林」で囲われ、冬の吹雪の時は凄い音がしたね。布団の上に雪も吹き込んできた。
家々は、上杉鷹山公の言いつけを守って、戦後まで、屋敷で正月用御馳走の「鯉」を飼い、その他、にわとり・あひる・ウサギ・豚・牛・馬・ヤギ・犬を飼い、客があれば、牛・馬・犬以外は皆首をしめて、皮をひんめくり、接待用に使ったね。子供たちはペットのように仲良かったが、結局は食うためだと知っていたから、首をしめるのを喜んで手伝ったね。肉なんて食えるのは、滅多に無かったよ。また、垣根には飢饉用
に、食用の「ウコギ」を植え、朝食は一汁一采、養蚕やたばこ栽培にも励んでいたよ。よ。)
伊勢原にも置賜人は一杯いるよ。同じ村出身だっているよ。新潟人には負けるけどね。
今年は、大山の何処かで「芋煮会」をやるので集まろうよ。
(写真はクリックすると大きく見えるよ。)
「越生町」を知ったのは、やはり、4年前である。
権田直助の生誕地が「毛呂山町」で、「行ってみたい!」と言う話になった時、「それじゃ!越生にも行かなきゃ!」と言う西部女史の発言で即決。西部氏は伊勢原の観光ボランティアの大ベテラン。運転者は、相州霊山「大山」研究の第一人者、宮崎武雄氏、「俺も行く!」と同道してくれたのは、伊勢原郷土史研究会長 渡部氏と錚々たるメンバー。私は企画推進で頑張った。
その時から、越生町の虜になった。梅や柑橘類の樹木の茂った山里の風情は、やはり児童期、置賜盆地の真ん中から、小松や梨郷の山々へ薬草、きのこ取りに行った幸福な時代の思い出が蘇ったのであろう。
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龍穏寺前の谷川 |
まして、龍穏寺の佇まいは、観光化された寺院風景と違い、永遠の静寂さが保障され、谷川の水音だけ聞こえる「己の世界」が実現できそうな自然に囲まれている。
2度目の訪問が終わった今、自分の墓地のあり場所として、本気で考えている。
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ガイドされる近江氏 |
前回の案内者は、毛呂山町の佐藤学芸員さんの紹介で、越生町文化財課主幹の石川氏であったが今回は、文化財課に最近採用されたという近江さんという若者であった。「私はまだまだ未熟者で・・・。」と言いながらも、子ども達をガイドする様子を交えて話すガイド内容は、丁寧で、一言も逃さず聞いてもらおうとする気概に溢れ、好感度は最高でした。
圧巻は、「栴檀林」と書かれた山門扁額の下でのガイドでした。
「駒澤大学の校歌をご存じの方はおりますか?」という言葉から始まった。龍穏寺は曹洞宗であるから、現在、その教義は「駒澤大学」で学ぶ。大学の基礎となったのは、古く「栴檀林」と呼ばれた学舎であった。
♪♪ 栴檀林!栴檀林!時代は正しく飛躍し来たれり。捕えよ!我が友、この現実!♪♪
神宮球場で、応援団長の指揮で歌った応援の校歌である。
ここまで深く中に入ったガイドは聞いたことがない。素晴らしい導入である。バスガイドさんの宛がい扶持のガイドとは一味違う「品」の高さを感じられた。
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道灌父子の墓標 |
デジカメのバッテリーが切れて、良い写真が無いので,「龍穏寺」「自得軒」「建康寺」「やまぶきの里」等の情報については、次のサイトでみて確かめて頂きたい。
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龍穏寺ご住職さんのご歓待を受けて・・。 |
最後に、龍穏寺のご住職、芹沢聡海氏、ご自身が、奥方と共に、我々を温かく迎えてくださり、御本尊様への合掌や名物ジュース「ゆずの介」で、おもてなし下さったことには大いに感動しました。心から感謝申し上げます。
また、同行した伊勢原の「道灌の和歌の研究」では第1人者の飯島是光氏が、「義務感ではなく、自分の心から楽しめる旅となった。企画力と言い、人脈と言い、君の力が分かったよ。とても良かった!」と何度もお礼を言って下さったのが嬉しかった。
とにかく、「越生町」は一度は住んでみたい場所である。
年休を取ってガイドをしてくださった近江さん、ありがとう!!!
この日の帰路は、東京組とは「やまぶきの里」でお別れし、伊勢原組は、厚木市に入ってから、皆で夕食を取り、無事、自宅玄関まで送り届けて頂きました。
参加者の皆さん、いろいろありがとう。お世話になりました。
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道灌像の前で記念撮影 |
平成26年6月18日(水)時々小雨もありましたが、他に苦にする事もなく、じっくり、ゆっくり、品川宿を学習をさせて頂きました。しかし、遊びが過ぎて、折角配って頂いた資料の予習もせず参加し、引率の諸先輩には誠に申しわけないことをしたと思っています。
そんな中で、「東海寺大山墓地」の「賀茂真淵の墓」に出合った時は感動・感激しました。
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賀茂真淵(浜松市立賀茂真淵記念館HPより転載) |
真淵と言えば、国学の祖と呼ばれている大人(うし)であり、大山の御師達の心の支えとなった「平田篤胤☛權田直助」の系統的な思想体系の源流です。権田直助が門をたたいた、平田篤胤の国学は古典を古事記に限定した本居宣長の学説を引き継いでいると言っていますが実際は「口承の伝承こそが古典」とし、祝詞を重視しています。さらに、篤胤は民衆の死後の行方も、「人は黄泉の国へ行くと、良い志を持った人は神になり、冥界にも行くことができる。」と説いています。それは、民衆への死後の世界の提示よりも現世における生き方の問題として、語られている。

それが、権田直助に引き継がれ、大山の御師達に大きな影響を与えています。つまり、幕末の草莽の志士たちの心の支えとなって、原理主義的な活動を呼び起こし、武家社会を崩壊させる原動力となったと言われています。

しかし、二人とも国学とは「古道の学問」であり、皇国が万国の上に立つ国であることを明らかにするための学問とした点である。「科学・学問」とは、原因と結果から一定の真理・法則を引き出そうとする研究であるとすれば、国学は古典を研究し、そこに流れている真理・法則を明らかにしようとするものといえましょう。国学者たちは古典や和歌、伝承、祝詞等の研究を通じて、日本人の心の有り様や伝統を発見し、伝えようとしたものです。
江戸期、こういった学問は中国の古典を研究する「儒学」しかなかった。日本の古典は、儀式の為とか、単なる伝承、娯楽として扱われていましたが、その中に存在するであろう真理を追究し始めたのが「賀茂真淵」なのです。

「大山の歴史」を勉強する途上、このことを知っていたので、思っても居なかった「真淵の墓」に出合い、感動したと言う訳です。
阿夫利神社の境内に建立されている国学者「權田直助像」は巨大な「獅子像」の影に隠れて、さらに小さくなってしまいましたが、直助の大山に於ける功績は、あの巨大な「獅子像」を凌ぐほどの大きさなのではないでしょうか。伊勢原の方々は、西郷隆盛と組んで起こした武力闘争を過大に評価し、国学者としての権田直助を見逃しているような気がしてならない。すでに、直助の生地、毛呂山町では「志士としての直助は小さく語り、国学者、句読点の祖としての直助を大きく語り継ごう。」と動き始めています。2012年の「直助、没後120年」を契機として、直助は毛呂山町の三大偉人の一人となり、「句読点の祖」として、小学校の副読本にも掲載されるようになっています。
真淵の墓地は30坪ほどあろうか?鳥居が建ち、その奥に、庭石様の石が複数重ねられていました。神仏混淆の墓石は大山の地でも見たことはあり、六角柱の石塔か、神殿様の墓石だったような気がしますが3mを越える鳥居を配している墓地は、イギリスのストーンサークルを思わせ、日本に脈々と受け継がれてきた原始宗教の心を覗いたような気分になった。
また、長くなった。今日は終わり