2011年9月12日月曜日

大山の話あれこれ《溝口・ふるさと館文化講演で・・・。》




伊勢原市歴史解説アドバイザーの一期生の宮崎武雄氏は大山参道で食堂と土産店を経営している「中村屋」さんのご隠居さんで、大山の歴史や文化財の研究の他、大山道保存をなどにも積極的に取り組まれている、大山ではとても大切な方です。     
 その宮崎さんが9月10日(土)、川崎市の溝口にある「ふるさと館」で講演をされるという話をお聞きし、お仲間の西部女史のお誘いもあったので、出かけました。
 溝口は小田急線、登戸で南部線に乗換、四つ目の駅でした。「大山道」と道しるべをたどってゆくと十分ほどで到着。
 江戸期交通の要所であった溝口の歴史を展示している館内を見学後、会場に入ると会場一杯の参加者で、伊勢原市の文化財課の職員や大山道の出版で有名な「風人社」の編集員や、道研究家の方々などで満員。報告では六十人以上の方が来られたということです。
 講演内容は世田谷区大山みちの会の「大山道の会の活動報告」、横浜市緑区の大山街道発見の会の「双六と錦絵に見る街道の今昔」及び宮崎氏の「大山街道を語る」の三つで、パワーポイントやDVDを使った、二時間たっぷりの講演会でした。三つのお話とも行政とは一線を画し、民間の団体として活動されている方々で、その研究熱心さや活動旺盛さに驚かされました。
 圧巻は北斎の「鎌倉江ノ嶋大山新板往来双六」の一つ一つの絵の場所を特定された研究の報告。懐かしかったのは北斎の絵が県立歴史博物館の物であったこと。10年前、歴史博物館のミュージアムライブラリーで館所有の浮世絵の使用貸出を担当していて、この北斎の絵は利用者がとても多かった事を覚えていたからです。
 最後は宮崎氏のDVDを使った大山信仰の話。大山寺が去ってからの大山信仰の衰退は極めて激しく、門前町のありようまで問われている現状や今後の行く末を案じておられる氏の嘆きが伝わってきました。しかし、現在の大山信仰を担っている阿夫利神社の活動を熱心に語っていたのはとても好印象でした。
 特に、明治以降の大山を取り仕切った阿夫利神社再興の旗手であった権田直助の話を、最後に持ってきた度胸は大したものであると思った。直助は江戸期、寺信仰であった大山信仰から見れば、アルカイダのような存在であり、大山寺信仰の破壊者でもある。その直助の阿夫利神社再興の取り組みを淡々と話している姿は信者よりも研究者としての姿に見えた。
 また、さらに嬉しかったのは半年ほど前、直助の国文学者としての著書「国文句読考」が句読点に関する日本初の著書である話をした時、「その話を今度の講演会で話す」と言われたが本当だとは思っていなかった。直助は地元に余り人気がないからです。しかし、会場にいた私の名を出して、話してくれたことに感動した。私の調査研究が初めて世に出た瞬間だったからです。




 確かに大山信仰の賑わいは凋落していますが今、先導師の方々が自分たちが怠ってきた講の訪問と再編成を目指し、頑張っている姿があちこちに感ぜられ、寺と神社で支えあう霊山大山の今後が期待されます。




 写真は講演する宮崎氏と権田直助の「国文句読考」の冒頭部と銅像写真です。
次のURLは権田直助の伝記です。見て下さい。
http://www2.tba.t-com.ne.jp/magoemu/gonta%20frame.html




2011年9月9日金曜日

石倉橋の道標が移転されました




大山道道標の中で、最も代表的で、有名な石倉橋の道標が第2東名道路の建設予定地になり、移転されました。
久しぶりに大山を訪れた方々は、「あっ!?無い!?」とびっくりされた方も多いこととおもいます。
私も知りませんでしたが知人に案内されて、先日、新設置場所に行ってきました。
移転先は300m圏内の鈴川河畔ですが一寸分かりにくいでしょう。
大山に向かって、石倉橋三叉路を過ぎ、最初の左側に曲がる細い路地を入ります。
左に廃工場があり、構わず進むと又、路地に出ます。その突き当たりの右の方に建っています。
鈴川護岸工事でできた空き地のようです。
機会があったら見に来て下さい。
写真撮影は9月10日ですが午後でしたので逆光が強く、上手く撮れていません。その内、午前に撮影し、Uplaodしたいと思います。

2011年9月8日木曜日

平塚市北豊田で大庭氏所領の記念碑に出会った!!


 先日、大山道に詳しいN女史に連れられて、大山道の灯籠や道標の位置確認のため平塚市北豊田を歩いた。 途中、道に迷い、新幹線の線路伝いに歩いていると、一戸建て、平屋の借家が並んでいる一角に、1mくらいの金属でできた四角柱を見つけた。<写真参照。上の写真の右上は新幹線。金属碑は電柱の向こうに微かに見える2本目の白い四角柱である。>

 周囲は雑草で覆われいたがその金属柱は真新しく、錆や汚れもなく立っているが文字が見える。長い雑草を引きちぎって、よく見ると「大庭塚」と書いている。まさか、藤沢の大庭氏の関係する記念碑とは思わず、側面の文字を見ると「この辺りは大庭氏所領であった」と書いてある。<写真参照>


 
  N女史も知らなかったらしい。
 大庭氏と言えば、藤沢の「御厨」を所領していた、相模では有力な平家方の武士団の長である。その勢力の大きさに対して、三浦義明の弟で、その強さから悪四郎と呼ばれた「三浦義実」が三浦を飛び出し、大庭、梶原と言う有力武士団を突破して、相模国大住郡(現伊勢原市)に根拠地を置いた時、「合点がゆかず、その理由がわからなかった。」と永井路子氏は「相模のもののふたち」の中で述べている。すぐに、中井を根拠地にしていた中村宗平の娘と結婚し、中村氏の婿となったからだと分かって、謎が解けたと述べている。
 大庭氏については深く知らず、伊勢原から20km以上離れた存在で、それほど大住郡には影響ないだろうくらいにしか考えていなかったが、目と鼻の先に「大庭氏の所領があった!」と知り、永井氏が岡崎義実の転身を不思議がったのも無理はないと改めて実感した。
 「北豊田には豊田郷は大庭氏の開墾荘園所領であり、大庭景宗の次男豊田次郎景俊が「相模国豊田庄」として領した地であり、相模西南部の中村党領地と接する大庭氏の最前線で、国境を持つ最重要地点でもあり、一族の重要な役割を担って居を構えていたものと想定できます。」とネットにも書かれたいました。
 しかし、このことは旧知の事で、地域以外の方にはなじみがなかったと言うことで決着をつけましょう。
 ただ、このことを知ったことにより、岡崎城の近隣に住むブロッガーにとっては、岡崎義実と中村党についての実地巡検をしたいという思いが大きくなったことは言える。

大庭氏については、次のHPを参考にしてください。

http://www.ne.jp/asahi/sayyou/house/history/hobatuka.htm

http://www.geocities.jp/jytkb817jp/mygokenin/z-toyodakageyosi.html

http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_61.html

http://www.asahi-net.or.jp/~pu4i-aok/walking2/kaizouji/jyufukujij.htm











2011年8月26日金曜日

「キャー!大山街道!!」がタウン誌に掲載

 8月26日(金)、タウン誌「伊勢原タイム」に「キャー!大山街道!!」の紹介記事が掲載されています。
先月、著者の中平さんと「平塚からの大山道」を歩いたばかりなので、とても強く目に飛び込んできました。 出版した風人社は商売とはいえ、しっかりと地についた、足で集めた確かな情報で編集しており、その分読者にもとても優しい。
9月23日(金・祝)第2回目の「著者と歩く大山道ウォーキング」を柏尾道で計画しています.
私はこんども参加します
 詳しくは風人社へ・・・。

2011年8月18日木曜日

どっこい!!伊勢原は首都文化圏の町

                                                                      伊勢原まで、小田急線で「新宿から1時間」と言うが、反対に、首都東京圏まで1時間で行けるという伊勢原は、さまざまな点で世界の最先端を味わことができる「首都圏」の町であることを日々実感している。特に、文化財や歴史に関しては、「国立博物館」や「江戸東京博物館」「上野の美術館」などを訪問することは苦労はしない。一寸、気にかければ世界の最先端の情報や機会に出会うことができる。
 そんな伊勢原に住んでいることのメリットを満喫したいと今回はクラシック音楽界に乗り込んでみた。
 新聞でチラッと見附けてしまった「読売日本交響楽団」の「三大交響曲」演奏会。場所は六本木、サントリーホール。指揮者は国際コンクールで優勝した若手の山田和樹。神奈川県出身だ。
 三大交響曲と言えば、学生時代、銀座の「ランブル」と言うクラシック喫茶で、貧乏人の仲間が集まり、汚れた髪を振り乱しながら、深刻ぶってきいた「未完成」「運命」「新世界より」である。本物など聴いたことがない。強いて言えば、東海大のクラブ活動の発表会で本物の音を聞いた程度だ。
 パソコンを操って、調べ上げ、冥土の土産とはいえ、S席は高い、一階席の後方に三列だけあるB席を注文。6000円。舞台の後ろ、横、二階席など安い席はあるが念願の音である、一階席で聞きたい。
 開演日の八月十七日は暑い日だ。二時から三時まで、大山公民館で「新編相模国風土記稿を読む」という講座に出て、三時半ころ自宅を出る。会場に着いたのが五時半。六本木自体はは大きなビルのようで道がない。節電で電車も街も暑い中、ようやくサントリーホールにたどり着く。
 首都圏とはいえ伊勢原から首都圏文化を味わうのは、やはり大変である。
 1000人ばかりの会場は満員である。敬遠した後ろの席も満員。
 皆、手慣れた聴衆のようだ。楽章毎の拍手はないが必ず咳ばらいが起こり、1,2分ざわつく。しかし、楽章毎の休みは1と2だけの間で、3楽章と4楽章は続けて演奏された。そこが若い時と違った。私としては、第3楽章の後も休みで切って、最後お第4楽章の感動をきたしていたが、一寸拍子抜けの感じがした。しかし、最後は大きな拍手と、お誉めの大声もあり、鳴りやまない拍手に、指揮者は何回も舞台に出てきて、団員をほめたたえる。これはいつもの光景。ただ、私の所属する「伊勢原男声合唱団」の舞台と違うのは、いくら拍手が続いても「アンコール」はない。
殆ど二人連れで一人で来ているものなどいないようだが気にはならない。素直に、日本一tの腕をもった楽団員の演奏に感動する。目をつむって聞くとラシック喫茶店のレコードと同じ音である。当り前である。
 伊勢原駅に着いたのが10時半頃。バスはない。タクシーはもったいない。軽い脚を利用して約2kmを歩いて帰宅。
 次回の首都圏文化との接触は誰かと行きたい。なんだか分からないが・・・・・。

2011年8月13日土曜日

各地の灯籠<山開き中の大山道の道案内>

  大山阿夫利神社山開き中の7月26日から8月17日まで、大山参詣の主要な主要な場所に、灯籠が灯されます。
 昨年は、8月9日、メール名tobikunnから伊勢原市小稲葉付近の写真を頂き、4枚ばかりUploadしましたが今年は7日の午後、文化財課のS氏にの案内で、世田谷にある出版社、風人社の編集者と一緒に、秦野市や平塚市の城所や豊田方面など、10か所ばかり回ってきました。
 この日は午前中、子易で「大山道・道標の話を聞く会」があり、その延長でした。
 風人社は大山道関係の出版物を手掛けていることで有名ですが、灯籠が「各地の集落の有志集団が持ち回りで管理している。」と言うことにとても興味を示したいました。
 灯籠は地域の実情に合った建て方で建てられ、解体保管されているところが殆どのようです。その為の保管小屋の立派なものもありました。
今回は、その内5ヶ所の写真をuplaodしました。 写真は風人社さんから頂きました。
 場所については、地図にポイントしましたので、次のURLで見て下さい。

http://maps.loco.yahoo.co.jp/maps?lat=35.42724595784466&lon=139.28532326171847&z=13&mode=map&pointer=on&datum=wgs&fa=sra&home=on&hlat=35.41409629087648&hlon=139.27365028808577&layout=&ei=utf-8&b=1&type=scroll


大山道灯籠No3(平塚市大島)















大山道灯籠No5(伊勢原市小稲葉仲西)             


















大山道灯籠No6(伊勢原市小稲葉八幡前)






















大山道灯籠No4(伊勢原市小稲葉下之町)

















大山道灯籠No7(伊勢原市小稲葉細町)














大山道灯籠No2(秦野市鶴巻下部)












大山道灯籠No1(平塚市北豊田)





2011年8月11日木曜日

大山・這い子坂・易往寺参観

 8月7日(日)大山・這い子坂近くにある現代押し花アトリエ「花あそび」で、「大山道・道標の話を聞く会」がありました。伊勢原市歴史アドバイザーの西部氏が相模川以西の大山道・道標をもれなく訪ね歩き、写真撮影した過程や道標にまつわる話を聞く会で、世田谷の出版社風人社さんや江戸五街道と大山道を踏破した海老名市のT氏、市の文化財課の担当者などにもおいでいただき、総勢10人ばかりの集まりでしたが話が細部にも盛り上がり、大山道の新しい紹介分野に話が弾みました。
 易往寺見学は会終了後、会場を貸していただいた方が易往寺の親戚筋に当たっていたので、紹介していただき、ご住職さんはお留守でしたがお内儀の計らいで、じっくりと見させていただきました。
 易往寺の仏様は伊勢原市教育委員会が編集した「伊勢原の仏像」にも掲載されており、又、今は安産の寺として有名です。

大山・東学坊さんのHPには次のように紹介されています。

大山街道を進むとバス停「這子坂」(はいこざか)があります。
 
『易往寺』(いおうじ)はこの右手上方にあります。平成9年には念願の本堂が建立されました。この寺は大山にとって大きな役割を担っていました。
879年(元慶3年)、関東一円を襲った大地震による山津波や大火災で大山は一時壊滅状態となり、大山寺への参拝が困難になってしまいました。その際、大山を開山した良弁僧正(ろうべんそうじょう)の孫弟子にあたる大山寺第四世弁真和尚が大山不動の仮安置所として881年(元慶5年)に易往寺を建立し、庶民はここで参拝したのです。この地には通称・子易姥子様と呼ばれる、良弁僧正の母を手本とした「子易祖母山子育大日如来堂」が建てられ、民間信仰の「咳止めのおば様」と習合して安産子育・咳止めの信仰を集めました。現在その御堂はありませんが、今でも易往寺では安産のお札を頂くことができます。