昼食は大田公民館でした。昼食前、地元の女性たちで結成された「劇団」の人形劇を見せていただきました。演題は「こがの渡し」。この辺りに伝わる、旅人に便利さを提供した渡し」の話でした。しかし、この辺りに渡し舟を必要とする川など見当たらず、一体何の話か分かりませんでした。
ところが、午後二つ目の参観先の東円寺でようやく話しの内容を理解することができました。
東円寺は田村十字路から下谷をとおり、伊勢原駅に続く、県道四四号線、つまり、江戸期の大山道沿いにある臨済宗の寺院でした。普段からよく見かける山門があり、小田厚道路、伊勢原インターを平塚側から通り越したすぐ左に見える寺です。かつて、この寺の山門の右側に大きな松の木があり、渡し舟をつないだので、「舟つなぎ松」と呼ばれていたということです。松は伊勢湾台風(?)で倒れてしまって今はありませんがその記念碑が最近たてられたと言うことです。台風の話のついでに、この寺にある宝筐院塔の相輪(最上部の棒)がこの度の東日本大震災時に地震により二つに折れ、落下していました。修復は難しそうでした。
説明によれば、この寺のすぐ東側にある「伊勢原インター」付近は江戸期、沼地で、旅人を舟で渡していたということです。旅人の中には江戸から来た「大山詣」の熊さんもいたことでしょう。東円寺はその船着き場だったのです。私の居住地にある地名「馬渡」も同じような舟着き場であったという話と結びつき、とても興味を感じました。そこで、家に帰り、明治初期の地図で検証した所、この沼は大句村、馬渡村、東大竹村、沼目村と続いている一大湿地帯の主要部と分かりました。このことに気付き、私は大いに興奮してこの記事を書いています。その上、人形劇「こがの渡し」の話も理解でき、この辺りの江戸期の地勢も想像できたことに大きな喜びを感じました。
今度は岡崎地区の史跡を調査したいという強い意欲がわいてきた史跡めぐりでした。
写真は当時の舟つなぎ松と記念碑及び平塚側から見た山門です。
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