2011年9月27日火曜日

稲刈りを手伝う(「さくら福祉農園」田んぼ)


 朝、稽古事に行く途中、馬渡交差点近くにある「さくら福祉農園」の田んぼで稲刈りが始まっていました。「稲刈り」はオープンデーというイベントで、市民に呼びかけて、みんなでやることになっていたのではと問いかけると、稲が倒れてきたのでそれまで待てないということでした。



 そこで、午後稽古終了後、手伝いに出かけました。利用者はまだおらず、担当の職員だけで機械刈りをしていましたので、まだ束ねてない稲等を束ねる作業から手伝いました。

 途中、利用者もやって来たので、棚掛けや稲運び、機械の入らない部分の稲刈りなど、思うに任せて好きなことをやらせていただいた。多少、迷惑な点もあったろうが私自身は稲刈り鎌でざくっと株を切った時の感覚が嬉しく、とても豊かな気持ちになってしまった。

 手伝ったのは2時間ほどですが今度は脱穀作業も誘ってくれるということなので、期待して待っていたい。

 「さくら福祉農園」の水稲栽培は近所の脱農家の田んぼを1枚(360坪?)借りて、2年ほど前から始めています。担当者はこの稲作をしたいがために、定年前に教員を退職し、やって来た静かな男である。かつて同僚だったので、何かを手伝ってあげたいといつも思っているが寄る年並みにはかなわず、思う通りにはならない。5年前までは半日「さくら」で畑作業を手伝ってもどうってことなかったがなあ!!

 写真はまだ、人のいない稲刈り中の田んぼの様子です。

2011年9月26日月曜日

東成瀬ミニサロンで講演<ISEHARA・おもてなし隊>


> H23・9・26(月)、<ISEHARA・おもてなし隊>は東成瀬ミニサロン(高齢者の地域サロン集会)で「日向薬師の話」の講演を行ないました。この講演の依頼は、隊の一員である西部女史の友人から依頼があったもので、過去にも、「各地からの大山眺望」の講演もさせていただいています。






 依頼を受けて、改めて、パワーポイントで内容をまとめ、図書館からプロジェクターを借用し、ようやく実施できたものです。器具操作は斉藤、講師役は西部さんが担当し、暗幕もあり、設備の整った公民館の一室で、快適に終了することができました。 



 西部女史は観光ボランティアも長く勤められており、その話し方、内容など場に応じ、当意即妙に語られる話術は確かなもので、みなさんに教えてあげたいという純な気持ちが表れ、好感が持てました。



 終了後も、話は尽きないようでしたが次のストレッチ体操の予定もあるということで、会場を出ました。



 しかし、前回の「大山眺望」の話を聞いてから、折に触れ、「大山を眺めるようになった!」と話しかけてくれた方の笑顔を見て、とてもうれしく帰ってきました。



 この地域は20年ほど前のマンション建設で入所した方が多く、伊勢原にはあまりなじみがなかった方が多いようで、伊勢原の古い話にはとても感慨を持って聞いてくれるようです。

2011年9月17日土曜日

縄文土器の野焼きを行いました(竹園小へ出前授業)

 9月8日(木)午前9時から1学期の出前授業で作った縄文土器の野焼きを行いました。
 日本中、残暑が厳しく、あちこちの学校で熱中症事件が起こっている中、6年生の三つの組が桜の木の下の日陰に集合し、私たちを待っていました。授業者は市職員の他、歴史解説アドバイザーが5人。手早く、キャンプファイヤーのように中央に薪材を積み、周囲に板を並べて子供たちの作品を並べる準備をし、授業が始まりました。


 子供達は自作の土器を大事そうに抱え、周囲においてゆきます。一度戻ってから、自分の作品を確かめに来る子もいます。





 点火から30分ほどして、地面が温まった頃、焚火の中央を開け、作品をその中に入れ替えます。そして、外側から作品を温めるようにして、焼きに入ります。子供達は周囲に薪を継ぎ足し、校舎に入り、別の授業を受けます。
 私たちは焼けるまでの1時間以上、火守です。

 私は土器つくりのとき2組に入ったが私を覚えていてくれた児童がいて、親しげに寄ってくる。何くれとちょっかいも出してくる。皆、その光景を見て、喜んでくれた。

 30度を超す残暑の中、さすがに火の側は熱い。1秒と火の近くにはおれない。去年も熱かったが今年はそれ以上である。学校の都合でこの時期しか、こういった出前授業はできないらしい。


 そんな中、作業も順調に進み、作品を取り出す午後までの間に、給食もご馳走になる。アドバイザイーの諸氏は皆65歳は過ぎていると思われるが小学生当時のパンとジャム給食の話など出て、現在の米飯給食に時代の変化を見、感慨一入と言った感である。相変わらず、栄養士さんの優しい心使いのこもった我々だけへの給食献立カードを頂き、感動した。



 出来栄えはまあまあである。割れたり、欠けたりした作品も4,5個あったがその場で市の担当者がセメダインでくっつけて、完成させる。今年のヒットはその修理を担任の若い先生も手伝い、完成させている姿であった。20年前頃、小学校教員の平均年齢は低くて40歳くらいであったが現在は若い先生方が多く、活気に満ちている。子供達を指導しているというより、共に育つという雰囲気である。なんだか、外から見ていても嬉しくなる。


 子供達は土器よりも火の熱さに感動したり、土器修理に関心を示したりと自由な雰囲気でこの出前授業を楽しんでいた。

 最後のあいさつで、「この出前授業の体験は貴重な体験であること」を強調したかったが、出た言葉は「又会いたいが来年は中学生だからもう会えない。残念だ!」というたわいない言葉になった。歴史の授業であることをすっかり忘れ、学区の年寄と子供達の交流の場であるような勘違いをしていた。

 最後に、担任の先生方が門のところまで見送ってくれたのが嬉しかった。大方、こんな時は管理職の先生が儀礼的に見送ってくれるだけが普通であるのに・・・・。

 私の学区の小学校は素晴らしい指導をしていると誇らしくなった。

 写真は野焼きの様子と出前授業者6人のためだけに作ってくれた「給食の手作りカード」です。


 なお、土器作りの様子は学校で発信している次のURLでご覧下さい。


2011年9月13日火曜日

市民ゴルフ大会で13位!!(伊勢原ccで)





 9月11日(日)伊勢原市の大山地区にある伊勢原カントリー倶楽部で、「第23回市民ゴルフ大会」が開催されました。参加者は男女合わせて300人近く。ブロガーは2回目の参加ですが今回13位に入り、10000円相当のダンロップのメーカーシャツを賞品として獲得し、最近のスコアに悩んでいた憂さを一気に晴らしました。
 参加者にはお隣さんや伊勢原歴史解説アドバイザーの方々もおられ、大いに盛り上がりました。
伊勢原ccは昭和48年8月、丘陵コースですがゴルフ場の先鋒としてスタート。
 「眼下に、東名高速や伊勢原市、平塚市の街々、遠く相模湾や湘南江ノ島の大パノラマの展望など、総坪数700坪に及ぶ豪華な雰囲気のクラブハウスから観る景観は、訪れるプレーヤーの方々に充分ご満足いただけます。諸設備も充実。合理性と機能性をとり入れユニークなデザインとともに好評を博しています。」というゴルフ場側の宣伝ですが 「あそこはゴルフ場じゃなくてスキー場。二度と行くか」「どこ打っていいかわからない。トリッキーにも程があるだろ」というゴルフ場側にも、プレーヤー側にも課題が多いゴルフ場です。
 ブロガーもINでは、トリプルもありましたがバーディも2つで、39と言う初めて40を切ったという物凄いスコア。午後の大山コースではOBが3個と言うみじめなスコア。なじむのが攻略の基本のようなゴルフ場です。
 しかし、トータル86、ハンディ14がついて13位。今季最高のスコアとなった。
 伊勢原ccのもう一つの目玉は、1957年、日本で開催されたカナダカップ(現ワールドカップ)では小野光一プロと組み、サム・スニードを擁した米国などを振り切り団体初優勝。自らも個人優勝を飾り、日本にゴルフブームを巻き起こすきっかけをつくった中村寅吉プロゴルファーのマネージメントを受けていること。中村氏は72年から伊勢原市に住み、コースマネジメントを手掛けた伊勢原カントリークラブでチャリティーゴルフ大会を開催し、同市の福祉基金に多額の寄付をしてきた。97年、名誉市民に選ばれている。
 現在、伊勢原ccの2階一室に、中村さんから優勝トロフィーなどの寄贈を受けた伊勢原市ゴルフ協会(坂本一夫理事長)が、同市や同クラブの支援で「中村寅吉ゴルフギャラリー」を開設しています。数々の優勝トロフィーや愛用のゴルフクラブなど120点が展示され、中村さんの輝かしい足跡をたどることができます。
中村寅吉ゴルフギャラリーについては次のURLを見て下さい。
http://www.knga.org/kanagawa/topics/267.htm

2011年9月12日月曜日

大山の話あれこれ《溝口・ふるさと館文化講演で・・・。》




伊勢原市歴史解説アドバイザーの一期生の宮崎武雄氏は大山参道で食堂と土産店を経営している「中村屋」さんのご隠居さんで、大山の歴史や文化財の研究の他、大山道保存をなどにも積極的に取り組まれている、大山ではとても大切な方です。     
 その宮崎さんが9月10日(土)、川崎市の溝口にある「ふるさと館」で講演をされるという話をお聞きし、お仲間の西部女史のお誘いもあったので、出かけました。
 溝口は小田急線、登戸で南部線に乗換、四つ目の駅でした。「大山道」と道しるべをたどってゆくと十分ほどで到着。
 江戸期交通の要所であった溝口の歴史を展示している館内を見学後、会場に入ると会場一杯の参加者で、伊勢原市の文化財課の職員や大山道の出版で有名な「風人社」の編集員や、道研究家の方々などで満員。報告では六十人以上の方が来られたということです。
 講演内容は世田谷区大山みちの会の「大山道の会の活動報告」、横浜市緑区の大山街道発見の会の「双六と錦絵に見る街道の今昔」及び宮崎氏の「大山街道を語る」の三つで、パワーポイントやDVDを使った、二時間たっぷりの講演会でした。三つのお話とも行政とは一線を画し、民間の団体として活動されている方々で、その研究熱心さや活動旺盛さに驚かされました。
 圧巻は北斎の「鎌倉江ノ嶋大山新板往来双六」の一つ一つの絵の場所を特定された研究の報告。懐かしかったのは北斎の絵が県立歴史博物館の物であったこと。10年前、歴史博物館のミュージアムライブラリーで館所有の浮世絵の使用貸出を担当していて、この北斎の絵は利用者がとても多かった事を覚えていたからです。
 最後は宮崎氏のDVDを使った大山信仰の話。大山寺が去ってからの大山信仰の衰退は極めて激しく、門前町のありようまで問われている現状や今後の行く末を案じておられる氏の嘆きが伝わってきました。しかし、現在の大山信仰を担っている阿夫利神社の活動を熱心に語っていたのはとても好印象でした。
 特に、明治以降の大山を取り仕切った阿夫利神社再興の旗手であった権田直助の話を、最後に持ってきた度胸は大したものであると思った。直助は江戸期、寺信仰であった大山信仰から見れば、アルカイダのような存在であり、大山寺信仰の破壊者でもある。その直助の阿夫利神社再興の取り組みを淡々と話している姿は信者よりも研究者としての姿に見えた。
 また、さらに嬉しかったのは半年ほど前、直助の国文学者としての著書「国文句読考」が句読点に関する日本初の著書である話をした時、「その話を今度の講演会で話す」と言われたが本当だとは思っていなかった。直助は地元に余り人気がないからです。しかし、会場にいた私の名を出して、話してくれたことに感動した。私の調査研究が初めて世に出た瞬間だったからです。




 確かに大山信仰の賑わいは凋落していますが今、先導師の方々が自分たちが怠ってきた講の訪問と再編成を目指し、頑張っている姿があちこちに感ぜられ、寺と神社で支えあう霊山大山の今後が期待されます。




 写真は講演する宮崎氏と権田直助の「国文句読考」の冒頭部と銅像写真です。
次のURLは権田直助の伝記です。見て下さい。
http://www2.tba.t-com.ne.jp/magoemu/gonta%20frame.html




2011年9月9日金曜日

石倉橋の道標が移転されました




大山道道標の中で、最も代表的で、有名な石倉橋の道標が第2東名道路の建設予定地になり、移転されました。
久しぶりに大山を訪れた方々は、「あっ!?無い!?」とびっくりされた方も多いこととおもいます。
私も知りませんでしたが知人に案内されて、先日、新設置場所に行ってきました。
移転先は300m圏内の鈴川河畔ですが一寸分かりにくいでしょう。
大山に向かって、石倉橋三叉路を過ぎ、最初の左側に曲がる細い路地を入ります。
左に廃工場があり、構わず進むと又、路地に出ます。その突き当たりの右の方に建っています。
鈴川護岸工事でできた空き地のようです。
機会があったら見に来て下さい。
写真撮影は9月10日ですが午後でしたので逆光が強く、上手く撮れていません。その内、午前に撮影し、Uplaodしたいと思います。

2011年9月8日木曜日

平塚市北豊田で大庭氏所領の記念碑に出会った!!


 先日、大山道に詳しいN女史に連れられて、大山道の灯籠や道標の位置確認のため平塚市北豊田を歩いた。 途中、道に迷い、新幹線の線路伝いに歩いていると、一戸建て、平屋の借家が並んでいる一角に、1mくらいの金属でできた四角柱を見つけた。<写真参照。上の写真の右上は新幹線。金属碑は電柱の向こうに微かに見える2本目の白い四角柱である。>

 周囲は雑草で覆われいたがその金属柱は真新しく、錆や汚れもなく立っているが文字が見える。長い雑草を引きちぎって、よく見ると「大庭塚」と書いている。まさか、藤沢の大庭氏の関係する記念碑とは思わず、側面の文字を見ると「この辺りは大庭氏所領であった」と書いてある。<写真参照>


 
  N女史も知らなかったらしい。
 大庭氏と言えば、藤沢の「御厨」を所領していた、相模では有力な平家方の武士団の長である。その勢力の大きさに対して、三浦義明の弟で、その強さから悪四郎と呼ばれた「三浦義実」が三浦を飛び出し、大庭、梶原と言う有力武士団を突破して、相模国大住郡(現伊勢原市)に根拠地を置いた時、「合点がゆかず、その理由がわからなかった。」と永井路子氏は「相模のもののふたち」の中で述べている。すぐに、中井を根拠地にしていた中村宗平の娘と結婚し、中村氏の婿となったからだと分かって、謎が解けたと述べている。
 大庭氏については深く知らず、伊勢原から20km以上離れた存在で、それほど大住郡には影響ないだろうくらいにしか考えていなかったが、目と鼻の先に「大庭氏の所領があった!」と知り、永井氏が岡崎義実の転身を不思議がったのも無理はないと改めて実感した。
 「北豊田には豊田郷は大庭氏の開墾荘園所領であり、大庭景宗の次男豊田次郎景俊が「相模国豊田庄」として領した地であり、相模西南部の中村党領地と接する大庭氏の最前線で、国境を持つ最重要地点でもあり、一族の重要な役割を担って居を構えていたものと想定できます。」とネットにも書かれたいました。
 しかし、このことは旧知の事で、地域以外の方にはなじみがなかったと言うことで決着をつけましょう。
 ただ、このことを知ったことにより、岡崎城の近隣に住むブロッガーにとっては、岡崎義実と中村党についての実地巡検をしたいという思いが大きくなったことは言える。

大庭氏については、次のHPを参考にしてください。

http://www.ne.jp/asahi/sayyou/house/history/hobatuka.htm

http://www.geocities.jp/jytkb817jp/mygokenin/z-toyodakageyosi.html

http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_61.html

http://www.asahi-net.or.jp/~pu4i-aok/walking2/kaizouji/jyufukujij.htm