2013年4月10日水曜日

相州大山(阿夫利山)異聞                   <その1、四つの廃寺探索と茶湯寺>


平成25年4月10日(水)。縁あって、いせはら歴史解説アドバイザー第1期生の皆さんで作られているグループ研究チーム「アドおおやまみち」の「水源地探索ウォーク」と言う「調査研究巡検」に同行させていただく機会に恵まれました。

総勢8名のウォークであったがお仲間に、大山に少年期からお住まいの方が二人おられ、思いもかけない遺跡や現状を知ることができ、同行できたことに感謝と感動を隠すことができなかった。

したがって、このウォークを報告することに当たっては、一文では混同するので、
その1、四つの廃寺探索と茶湯寺。
その2、農業用水水源探索。
その3、四の銅鳥居跡と豆腐坂
の3つに分けてUPLOADすることにしました。

大泉寺跡
 最初の案内場所は路線バス大山行きの「良弁滝」で下車、旧大山道から「旅館 かめい」の正門に向かって入り、右に曲がった枝打ちした杉の葉が重なっている杉木立の山の中。しかし、ここは日向に通じる山道だという。そんな中をしばし歩くと数基の石塔があった。(写真参照)その中の一つは「無縫塔(住職の墓石)」です。ここは、「新編相模国風土記稿」にも記載されている「大泉寺跡」なのだそうです。そんな話は聞いたことがなかったので、びっくり。その上、「案内説明板」も設置されている。公的な設置かと思ったら、「アドおおやまみち」のメンバーが谷に落ちていた石塔を運び、土台に載せ、そこに、自費で「説明版」も作ったものだそうです。公的には、誰も保存に関係していないという。
新編相模国風土記稿巻の五十


アドおおやまみちの皆さんが建てた看板
『散乱している丸太や石塔をもう一度きちんと整理したいものだ!!』という誰かの言葉に、みな頷いていました。ブロッガーもできれば手伝いたいと申し出た。

「風土記稿」によれば「大泉寺」は黄檗宗で、「時の鐘」も打っていたということです。鐘堂もあったということになる。

黄檗宗はご存じのように、17世紀中葉、中国僧隠元が伝えた禅宗の一派で、京都の満福寺を本山として、徳川家綱から寺領10万坪与えられ、一時盛んになったが、徳川幕府の寺請制度の中では長く繁栄することができず、また、明治期の一時期、禅宗から外されたりしたので、廃寺になったケースも多くみられる。

まだ廃寺にはなっていないが、伊勢原では上平間にある住職のいない「三観寺」も黄檗宗です。





西岸寺跡
廃寺といえば、その後案内された「西岸寺」は、とても強い印象が残った。大滝荘の前の石段を登り、しばらく行くとお寺とも思えないバラックがありました。そこが「西岸寺」だという。かつて、現「茶湯寺」のご住職のご舎弟さんが住職をされていたという話でした。ガラス越しに中をのぞくと、奥の方に『仏壇』らしきものが見えた。この寺は浄土宗の寺で、昭和27年、「相頓寺」、「西迎寺」と「西岸寺」の三寺が合併して「西迎寺」の場所にできたのが「茶湯寺」だそうです。しかし「相頓寺跡」は印象に印象に残っていない。もう一度、行ってみる必要がありそうです。







5番が大泉寺跡




 
11番が「相頓寺跡」15番が「西岸寺跡」
 



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