4月13日(土)表題のような講演会が開催された。講師はいせはら歴史解説アドバイザー1期生の宮崎武雄氏。宮崎氏とはお互いの調査研究発表会で参加し合い、研鑽を高めてきた仲であるので、今回も勇んで聞かせていただいた。
表題に関することは、既に「石倉の不動尊座像道標について・・・大山道の変遷と不動尊座像のあった場所」と題して、「KAZESAYAGE<平地編>第13号」(風人社 2012・7・27発行)で発表されていますが直にお話を聞く機会がなかったので、楽しみであった。講演する宮崎氏 |
「KAZESAYAGE」という冊子をご存知ない方も多いと思いますが世田谷にある「風人社」という出版社の、A6版、15P、1冊300円のミニコミ誌である。「風人社」は、地図関係の出版も手掛けており、その関係で「道」に関する出版物も多く、その中でも、「大山道」に関する地図や書籍に力を入れている。
石倉自治館前にあった道標 (H22頃西部氏撮影) |
鈴川に移された現在の道標。 (H24・4斉藤撮影) |
石倉自治館前の道標紹介文 |
表題の「不動尊座像道標」は各地からの大山道が収斂する「石倉三差路」にあった地域の自治会館の前にあり、関係者ならだれでも知っている大山道道標としては有名で、大山道を象徴する道標であった。日向石で作られていたのか、傷みも激しく、すでに両腕もなくなっていたので少なくとも江戸期に作られたであろうと、だれでも想像していた。さらに、この道標はその後の道路拡張などで、ここに移設されたものであることは皆承知していたが最初、どこに設置されたかについては、誰も知らず、あまり追及する研究家も少なかった。
いせはら歴史解説アドバイザーの一期生で、大山研究に集まった「アドおおやま」の仲間たちは、このことを手掛け、議論し合ったが結論は出ず、今回の講師の宮崎氏が継続案件として、頑張っていたらしい。
①
地図の検証☛古地図(山口家に伝わる古地図の検討)・明治期(軍事用)・大正期(東海道線鉄道設置に伴う参詣道の変化)等の検討と比較。
②
写真の入手☛当該道標の写真を入手し、看板や文字の書き方、町村合併の変遷などから年代を推定。
最初に設置された場所(大正期) (写真提供:山口靖之氏) |
③
道標の文字の検討☛「おおやま」という地名が書かれていないことから「山帰りのための道標である。」と推論。☛道標に書かれた案内先の地名から不動尊座像の向きを検討。☛移設の度に、座像の方向が変わっている。
以上のことなどから、「参照地図」のように結論付けている。
宮崎氏は「全く、個人的な見解であるがこの地図の位置であるとすべての疑問が解決する。」と謙虚に話されておりますがそこには、伊勢原市大山で生まれ育った土地勘や世間話が大きな役割を果たすと同時に、郷土を思いやる強い心が感じられ、とても好感のもてる講演でした。
結論はどうあれ、資料収集、解釈、推論などの過程は、推理作家を思わせる見事な腕前で、すっかり感心させられた。
その後、同道した昼食時、「神奈川県では鎌倉、箱根に続く観光地として、<大山周辺>を取り上げ、キャンペーンを始めているがそれには、<大山や大山道の表現化(案内板や説明版)の工夫>が大きな役割を果たす筈なので、案内版等で個人的にも努力したい。」と話されていたが当ブロガーも協力したいと思っている。
なお、詳しい内容は次の風人社のHPを見てください。
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