2013年2月11日月曜日

伊勢原・大山山麓に大型中世屋敷跡発見


28日、「伊勢原の遺跡、大山子易地域の新東名高速建設予定地に大型建物跡を発見」と云う情報を仕入れ、早速、翌日しか無いと言う「見学会」に参加。子易地域は親戚や知人が住んでいる所であり、立ち退いた方々も知っているので、見逃せなかった。
大山行き、「明神前バス停」で下車。大山に向かって左側の農道に入ると、大山新道の建設の現場があり、発掘現場はその右上の棚田であった。この棚田、10年ほど前、市農政課の「市民オーナー制度」で稲作を体験した棚田で、改めてこの地域との縁を感じた。
報告は写真中心で行いたいが解説員によれば発掘跡は、13c末から14c始め(鎌倉時代後期から南北朝時代)の「民家跡」ではなく、「武家屋敷跡」だと言う事が大きな話題であると言う。今まで、大山は宗教の山として話題になっていたが武家との関連は無かったからであろう。しかし、御師達の一部は足利尊氏の下に駆けつけているので武力とは関係なかったわけではないと思われる。
また、新聞によれば「鎌倉以外の地域で、これだけ良い状態で建物跡が発見されるのは珍しい。中世の伊勢原を探る上での貴重な発見である。」と云う。
「武家屋敷」である理由として、厩跡があること柱が頑丈で、角柱に削るなど建設様式が頑丈で細工されていることを挙げていた。
また、周囲の状況が谷(南はゴルフ場下の谷、北は鈴川、西は山地、南は伊勢原市街地を見渡せる扇状地)で囲まれている事等、武家屋敷(城郭)としての条件も備わっていると言う。
大山が良く見える。手前のブルーシートが発掘現場


遺跡より子易集落を望む。大山道明神前で開業している鵜川医師はかつてこの辺りの庄屋であった。と云う事は、この辺りは大山地域の中心地域であったとも考えられる。

手前2号掘立柱建物跡・奥が4号で厩
4号堀立柱建物跡(左一段低iい所は厩)
1号掘立柱建物跡。柱間は2m位との事






2013年2月5日火曜日

武蔵・入間郡毛呂本郷からの「大山道」を探る No1

 正月、大山宿坊「下神崎荘」に宿泊したのが縁で、毛呂山町からの「大山参詣道」を探ることになった。「下神崎荘」は以前にも書いたが権田直助とも縁があり、その繋がりで、直助の生家、毛呂本郷の地にある「節分会」と云う大山講があることも知った。
 節分時、その「節分会」が阿夫利神社」の「節分祭」に参加するため大山にやって来ると言うので、節分会講中の方々のお話を伺うことができた。しかし、現在の講中はバスでやって来て、節分祭に参加し、そのまま帰町するという具合で、江戸期の参詣道については、話題になっていなかった。
 ただ、「相模大山街道」(大山阿夫利神社編・S62出版)に出てくる地名などについてお聞きすることができたので、次のとおり、大凡のルートは解明できた。

②◆「相模大山街道」(大山阿夫利神社編・S62出版)による江戸期の探索ルート

毛呂本郷 →日高市p86.武蔵秩父日高・飯能道=日高町を起点とする大山道)
          宮沢村 双柳(なみやなぎ) 
↓ ← 富士山栗原新田 金子  南峯 ←阿須の渡し(入間川渡河)
箱根ヶ崎二本木高萩熊谷熊谷道と合流=p166武蔵より相模へ入る大山道)
(p167~ 甲州街道 八王子より大山へ参照)
拝島 →八王子 →相模国


 詳しい検討事項は後日に譲ることにして、そのルートを、ルートラボでUPLOADしたので、取りあえず、次のURLをクリックして、ルートを辿ってみて下さい。


◆ネット地図(ルートラボ)による江戸期の探索ルート

【毛呂山町から大山までルート】<投稿者:斉藤勢吾>(八王子からは②以下参照)





【八王子からの大山までのルート】 その1(投稿者:海老名市高橋氏)



【八王子からの大山までのルート】 その2(投稿者:海老名市高橋氏)







◆参考 <ネット地図による現在の自動車ルート/徒歩ルートは「詳しい地図を見る」をクリックし、徒歩で探索して下さい。>>









2013年1月27日日曜日

伊勢原南公民館の歴史講座「岡崎城址をたずねて」ウォークに参加


  昨年、岡崎城址の調査研究を重ね、一応まとめる事が出来、「さくら福祉農園」の職員研修で話せても頂いた。しかし、市の広報で、標記の講座を知り、聞けば、岡崎城をレクチュアーして下さった文化財課の諏訪間氏がガイドされるとのことなので、実地研修には最高の機会と思い、合唱団の友人を誘い参加させて頂いた。参加者は15人ほどで、街歩きには丁度良い人数で、様々な点で、新しい知見や発見ができたので、箇条書き的にUPしてみます。なお、「岡崎城の話」はまだ、HP 「ISEHARA・おもてなし隊の連絡帳」http://www3.hp-ez.com/hp/magoemu/page3)に掲載ていなかったので、この際、Uploadしてみたい。


①馬渡バス停近くの六地蔵 
  落花生店「豆芳伊勢原店」横から八幡台に登る道、岡崎と東大竹境の道端(豆芳駐車場端)に一つの石塔に六つのお地蔵さんを浮き彫りされた、珍しい六地蔵があります。道路拡張などで移転され、ブロック塀で囲われている所為か、通り掛る人も見落とします。
一石塔六躰の六地蔵尊
 
地蔵菩薩の像を6体並べて祀った六地蔵信仰は各地で見られます。これは、仏教の六道輪廻の思想(全ての生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)に基づき、六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれたものである。六地蔵の個々の名称については一定していませんが、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の順に檀陀(だんだ)地蔵、宝珠地蔵、宝印地蔵、持地地蔵、除蓋障(じょがいしょう)地蔵、日光地蔵と称する場合と、それぞれを金剛願地蔵、金剛宝地蔵、金剛悲地蔵、金剛幢地蔵、放光王地蔵、預天賀地蔵と称する場合が多い。

②菅原神社に合祀されている「御嶽神社」
御嶽神社
 菅原神社は地元の祭神として、例年、お賽銭を差し上げているがその昔の祭神として拝まれていた「御嶽神社」が右奥に合祀されているのを始めて知った。菅原神社は明治43年(1910)には岡崎神社に合祀されたが、町村合併時の分村合併に伴い中郡岡崎村から伊勢原町岡崎と地名が変わり昭和32年(19579月に分祀、旧に復し馬渡住民の氏神様として現在に至る。

台曲輪(デ―曲がり)

③岡崎城 その1、台廓(曲輪)
 地元では 「デ―曲がり」と発音している「台曲輪」は岡崎城のずっと西、ゴルフ練習場に近い所にある台地だった。「野陣台」と同じく、説明されなければ分らないような農地になっているが遠景で見れば、見事な台地になっている。 
皇太子道


④岡崎城 その2、皇太子道 
 昭和541979)年9月、現皇太子浩宮様が学習院大学2年時、歴史巡検で無量寺と岡崎義實の墓所を訪ねている。その時、泥濘を改善したいと一部、コンクリートの道を作ったと言う。その場所は無量寺から墓所に行く途中の、空掘りに沿った10m程。幅は40cm位だろうか。

  ⑤岡崎城 その3、御前曲輪
御前曲輪
 無量寺の丁度後ろに当たる所の、竹やぶの奥が「御前曲輪(廓)」です。「御前」と云うからには城主の館跡であろう。冬以外は蝮が出るので藪の中に入る事は出来ないが冬場の今は何処にでも行ける。曲輪の中に入り、発掘状況等伺う。結局、江戸期の耕作が深く、「かわらけ」等以外発掘されなかったとか。
とにかく、「御前曲輪」に上がれたことには感激した。

⑤岡崎城 その4、梯子曲輪
梯子曲輪の堀切り
 「御前曲輪」から大句の方へ下る部分が「梯子曲輪」と呼ばれている。文字どおり、梯子のように、3段に分かれた「曲輪」が連なっている。その様相は、中々分りにくいが今回はやぶの中に入れたので、良く理解できた。何せ、古い時代の土地工作なので、「崩れや埋まり」でかなり浅くなっているので、分かりにくいが、それでも、見れば直ぐ理解できた。




敬神生活の綱領
⑥腰取神社と大句自治会館
  天保年間(18301843)に創建され、その後、明治43年(1910)には岡崎神社に合祀されたた腰取神社は、町村合併で、昭和32年(19579月に分祀され、社殿は平成12年に立て替られている大句地区の鎮守様です。この神社の近くにある大句自治会館には、この地区の民俗風習を表す「廻り地蔵」や「乙女地蔵」の額など残されている。その中でも、目に着いたのが「敬神生活の綱領」と書かれた額でありました。先日、「権田直助」の書いた編額に「盡敬神之誠」とあったが「敬神」とは実際どういう事を指すのか分らなかったからである。

 ⑤方圓寺の大地蔵尊坐像と乙女地蔵
方圓寺の大地蔵尊
 大句の方圓寺は、門前に民話に出てくる「乙女地蔵」が建っているので有名ですが、境内にある「大地蔵尊坐像」は享保2(1717)年、信州高遠の石工、北原四方之丞きたはらよものじょうによって作られた高さ3m(1丈6尺=丈六)の坐像です。日向石で作られているのでボロボロになり、修復も成らないが、相模に渡って来た初期の高遠の石工が作った代表作です。高遠藩で、武士の二,三男対策として、職業開拓された石工達は、江戸城完成に伴い、相模にもやって来た、七沢石や日向石などを切り出し、この地で生計を立てるようになったと言う。
現在、伊勢原の日向で石屋を経営している、石工「秋山安太郎商店」(パラリンピック水泳優勝者秋山里奈さんの生家)等は「北原」の腕を受け継いでいると言うことです。

























2013年1月18日金曜日

東日本大震災復興視察で「いわき市」へ ②                 いわき市「塩屋岬」から被災地の沿岸部へ

17日(水)は午前中、8人乗りタクシーで、いわき市の海岸部へ震災の状況を視察。スパ・リゾートから1時間以上走行。「塩屋岬」美空ひばりの名曲「みだれ髪」の記念碑と歌が聞こえる場所で、記念撮影。「みだれ髪」を歌うクルーも2人ばかり。
塩屋岬・後ろは「燈台」と「ひばり像」
そこから、海岸線を北に走る。車窓から見える津波にさらわれた基礎土台だけの町の様子や学校跡等を撮影。常盤湯本駅に到着。
 駅前の街起こしの為に作った「足湯」やブロンズ像の前で、地元ガイドの、被災当時の話等伺う。


中学校も被災したままだ。
復興はまだまだのようだ。
湯本駅前で街のガイドをしてもらう。

 スパに帰って、再び送迎バスで横浜についた時は午後7時になっていた。駅前の地下街で、打ち上げの食事をして伊勢原へ。もう10時になっていた。

東日本大震災復興視察で「いわき市」へ ①                 スパ・リゾートハワイアンズで復興祈りのダンス見物

 1月16日(水)から17日(木)の2日間、「歌好き我ら」の仲間8人が、スパ・リゾートハワイアンズ(旧常盤ハワイアンズ)のハワイアンダンス見物を兼ねて、福島県いわき市の復興状況を視察に行ってきました。
 このクルーを引率したのは、いせはら観光ボランティア、西部氏のお仲間のK氏で、スパの大株主だそうで、様々なスパ滞在の特典(見物座席や食事部屋・ダンサーや指導者との会見・土産店の選定・案内者等)の恩恵に預かりながら、スパをメーンとする「いわき市」の復興の状況を知ることができました。
 とは言え、半分以上はハワイアンダンス見物に来たようなもので、2日間で昼夜の公演3回も見物し、ダンサーの顔も分るほどダンスの贅を頂きました。この日の公演は年初と云う事で、ダンサー全員(30名ほど)出演のパホーマンスとなり、皆興奮してしまいました。特に夜の公演は老若男女で、満席、スパの人気が高い事も分かりました。
舞台では福島復興を願う、スパ独自で作った歌を配したパホーマンス(アイナ ふくしま・動画参照)があり、会場は祈りの心の静寂もありました。 舞台終了後、ダンサーのチーフと話す機会を与えられた仲間の一人は涙を流しながら、素晴らしい舞台だったと訴えていました。








K氏によれば、震災後スパ開演1年経過、スパの経営は順調に進んでいると云う報告もありました。今後も、私どものようにスパを訪れて下さる方が増えるよう宣伝して欲しいというお話もありました。宿泊で15000円位。横浜や東京から、無料の送迎バスが出ています。日帰りも4000円程でハワイアンダンスの舞台やプール風呂など利用できます。







2013年1月15日火曜日

久しぶりに大山山影撮影:「平塚宿と平塚七福神めぐり」で須賀港から

 前記事にも書きましたが、 「平塚宿と平塚七福神めぐり」ウォークに参加して、須賀港や馬入川河口付近からの雪の大山山影をはっきり見ることができたのは収穫であった。
 房総半島から大山参りに出発し、陸に上がり、さらにはっきりと近づく大山を見て、皆ワクワクしたに違いない。
須賀港近くの長楽寺から

馬入川鉄橋近くの堤防から

馬入川河口須賀港近くから

「平塚宿と平塚七福神めぐり」(主催:伊勢原観光ボランティア協会)に参加

 昨年12月の伊勢原ボランティア協会ニュースで見かけた「大山道の記事」に魅かれて、新年から実施される「観ボラ15周年記念ウォーク」の表記新コースに参加を申し込んだ。
前日は雪で、天候を心配したが良い天気になり、心も穏やかに、6km以上のウォークを楽しんだ。知人である「いせはら歴史解説アドバイザー」の方も何人かおられ、大好きな文化財の話等もでき、参加して良かったと細君に報告出来た。
 特に、この辺りにおける道標に書かれた「やはた」とは伊勢原の八幡台方面かと思っていたが「八幡神社」への道筋である事を知り、得心できた。
 また、須賀港や馬入川河口付近からの雪の大山山影をはっきり見ることができたのは収穫であった。房総半島から大山参りに出発し、陸に上がって、さらにはっきりと近づく大山を見て、皆感動したに違いない。
 平塚の由来や平塚宿の見附跡等を再確認できたのも収穫であった。
 以下、写真をご覧ください。
チラシにあった七福神の寺社

観ボラニュースの寄稿文


平塚宿見附

平塚地名の由来となった塚