2013年1月27日日曜日

伊勢原南公民館の歴史講座「岡崎城址をたずねて」ウォークに参加


  昨年、岡崎城址の調査研究を重ね、一応まとめる事が出来、「さくら福祉農園」の職員研修で話せても頂いた。しかし、市の広報で、標記の講座を知り、聞けば、岡崎城をレクチュアーして下さった文化財課の諏訪間氏がガイドされるとのことなので、実地研修には最高の機会と思い、合唱団の友人を誘い参加させて頂いた。参加者は15人ほどで、街歩きには丁度良い人数で、様々な点で、新しい知見や発見ができたので、箇条書き的にUPしてみます。なお、「岡崎城の話」はまだ、HP 「ISEHARA・おもてなし隊の連絡帳」http://www3.hp-ez.com/hp/magoemu/page3)に掲載ていなかったので、この際、Uploadしてみたい。


①馬渡バス停近くの六地蔵 
  落花生店「豆芳伊勢原店」横から八幡台に登る道、岡崎と東大竹境の道端(豆芳駐車場端)に一つの石塔に六つのお地蔵さんを浮き彫りされた、珍しい六地蔵があります。道路拡張などで移転され、ブロック塀で囲われている所為か、通り掛る人も見落とします。
一石塔六躰の六地蔵尊
 
地蔵菩薩の像を6体並べて祀った六地蔵信仰は各地で見られます。これは、仏教の六道輪廻の思想(全ての生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)に基づき、六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれたものである。六地蔵の個々の名称については一定していませんが、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の順に檀陀(だんだ)地蔵、宝珠地蔵、宝印地蔵、持地地蔵、除蓋障(じょがいしょう)地蔵、日光地蔵と称する場合と、それぞれを金剛願地蔵、金剛宝地蔵、金剛悲地蔵、金剛幢地蔵、放光王地蔵、預天賀地蔵と称する場合が多い。

②菅原神社に合祀されている「御嶽神社」
御嶽神社
 菅原神社は地元の祭神として、例年、お賽銭を差し上げているがその昔の祭神として拝まれていた「御嶽神社」が右奥に合祀されているのを始めて知った。菅原神社は明治43年(1910)には岡崎神社に合祀されたが、町村合併時の分村合併に伴い中郡岡崎村から伊勢原町岡崎と地名が変わり昭和32年(19579月に分祀、旧に復し馬渡住民の氏神様として現在に至る。

台曲輪(デ―曲がり)

③岡崎城 その1、台廓(曲輪)
 地元では 「デ―曲がり」と発音している「台曲輪」は岡崎城のずっと西、ゴルフ練習場に近い所にある台地だった。「野陣台」と同じく、説明されなければ分らないような農地になっているが遠景で見れば、見事な台地になっている。 
皇太子道


④岡崎城 その2、皇太子道 
 昭和541979)年9月、現皇太子浩宮様が学習院大学2年時、歴史巡検で無量寺と岡崎義實の墓所を訪ねている。その時、泥濘を改善したいと一部、コンクリートの道を作ったと言う。その場所は無量寺から墓所に行く途中の、空掘りに沿った10m程。幅は40cm位だろうか。

  ⑤岡崎城 その3、御前曲輪
御前曲輪
 無量寺の丁度後ろに当たる所の、竹やぶの奥が「御前曲輪(廓)」です。「御前」と云うからには城主の館跡であろう。冬以外は蝮が出るので藪の中に入る事は出来ないが冬場の今は何処にでも行ける。曲輪の中に入り、発掘状況等伺う。結局、江戸期の耕作が深く、「かわらけ」等以外発掘されなかったとか。
とにかく、「御前曲輪」に上がれたことには感激した。

⑤岡崎城 その4、梯子曲輪
梯子曲輪の堀切り
 「御前曲輪」から大句の方へ下る部分が「梯子曲輪」と呼ばれている。文字どおり、梯子のように、3段に分かれた「曲輪」が連なっている。その様相は、中々分りにくいが今回はやぶの中に入れたので、良く理解できた。何せ、古い時代の土地工作なので、「崩れや埋まり」でかなり浅くなっているので、分かりにくいが、それでも、見れば直ぐ理解できた。




敬神生活の綱領
⑥腰取神社と大句自治会館
  天保年間(18301843)に創建され、その後、明治43年(1910)には岡崎神社に合祀されたた腰取神社は、町村合併で、昭和32年(19579月に分祀され、社殿は平成12年に立て替られている大句地区の鎮守様です。この神社の近くにある大句自治会館には、この地区の民俗風習を表す「廻り地蔵」や「乙女地蔵」の額など残されている。その中でも、目に着いたのが「敬神生活の綱領」と書かれた額でありました。先日、「権田直助」の書いた編額に「盡敬神之誠」とあったが「敬神」とは実際どういう事を指すのか分らなかったからである。

 ⑤方圓寺の大地蔵尊坐像と乙女地蔵
方圓寺の大地蔵尊
 大句の方圓寺は、門前に民話に出てくる「乙女地蔵」が建っているので有名ですが、境内にある「大地蔵尊坐像」は享保2(1717)年、信州高遠の石工、北原四方之丞きたはらよものじょうによって作られた高さ3m(1丈6尺=丈六)の坐像です。日向石で作られているのでボロボロになり、修復も成らないが、相模に渡って来た初期の高遠の石工が作った代表作です。高遠藩で、武士の二,三男対策として、職業開拓された石工達は、江戸城完成に伴い、相模にもやって来た、七沢石や日向石などを切り出し、この地で生計を立てるようになったと言う。
現在、伊勢原の日向で石屋を経営している、石工「秋山安太郎商店」(パラリンピック水泳優勝者秋山里奈さんの生家)等は「北原」の腕を受け継いでいると言うことです。

























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