2014年8月17日日曜日

8月16日(土)大山3題 その3               大山阿夫利神社「納め太刀」の神事。          祈願・奉納も・・・。

 この日、「納め太刀」の神事の無事終了したことが新聞報道された。

掲載記事:読売新聞朝刊(H26・8・17<日>)

 一昨年、伊勢原の青年会議所が公募していた「納め太刀」の神事に参加し、初めて、目玉の一つである「大山寺の護摩焚き」に参席し、感動したことを覚えている。
 その時から、大山振興策の一つに、「大山寺の護摩焚き」を入れるべきとの思いを強くしたものである。「護摩焚き」の怪しい雰囲気で、人々の心をとらえて、現実から逃れられると言う思いもかなえられようと思うのは当然のように思えたからである。大山に、この「護摩焚き」を再び繁栄させれば、たちまち、世間の話題になり、大山参道も賑やかになるに違いないと思えるのである。
 現在、大山観光の振興を一手に引き受けているのが「阿夫利神社」であろう。しかし、なかなか盛り上がらないのは、はやり歴史的な経過を無視しているからではなかろうか。元々、歴史的に、大山を振興させてきたのは「仏教」である。
 明治期、政権の転換で、神道的になるのは仕方ないが、政府は「仏教を排除」した訳ではない。従って、後世の神道系の人々が、広い心を持って、仏経を完全に排除しなければ、地域的には振興に向かったかもしれないからである。
 何とか「大山寺」を再浮上させる策は無い物であろうか。
 ただ、「大山寺」も再浮上を狙って、神社側の失態を突こうとしている気配も感じられる。例えば、HP上の「権田直助」の行動記述や大山信仰に関する古さを、神社側から無理に奪おうとする姿勢がみられるからである。                                  大山振興策は「古さ」の競いではなく、「大山に来られた方々を、如何に、安心させるか!?」である。大山の、自然や文化財はその道具になればよいだけの話であろう。


 兎に角、「阿夫利神社」「石尊信仰」一辺倒ではなく、「護摩焚き」の仏事を浮上させる策が最高だと思っている

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