2013年5月18日土曜日

「まが玉造り」のお手伝い                <伊勢原市比々多神社「まが玉祭り」で>

 5月18(土)と19日(日)の2日間、三之宮・比々多神社では今年もにぎやかに「勾玉祭り」が行われました。

「まが玉造り」のテントをお祓いしてくれました。
この祭りには、毎年、境内の一角にテントを張り、「まが玉造り」の体験学習の場を設定し、いせはら歴史解説アドバイザーが指導に当たっています。今年も、仲間と参加。参加者は土曜日だけで70人ほど。小学生以下の子供たちと保護者がほとんど。当方は10人ほど指導。孫と遊んでいるような、楽しい一日でした。
 明日も半日手伝います。
 午後は伊勢原文化センター大ホールで、「第九合唱団」の初顔合わせです。


二人がかりで指導。

2013年5月16日木曜日

第3回「作助ウォーク」ガイド地・遊行寺支院「長生院」の照手姫伝説余話

 昨日、第3回「作助ウォーク」下見が終了し、しっかりと打ち合わせも行いました。
今回のウォークガイドの話題の中に、各地に残る「照手姫伝説」があります。下見では、その一つの伝説を中心にお話しますが詳しいガイドさんはあちこちに残された伝説も話します。
 と言うことで、第2班のガイド、原さんより、また新しい「照手姫」伝説の情報が入って来ましたのでお知らせします。

余談

 先日、平塚の県立花菜ガーデン(平塚養護学校の近く)に行ってきました。

 なんと照手姫にちなんだ花桃の木がありました。

 照手シリーズとして命名されているようです。

 その話は相模原市横山に伝わる話となっています。 
 
 
 

「上溝の照手姫の話」 URL    http://www.rekishi.sagami.in/terute.html

2013年5月13日月曜日

二宮氏館跡「知足寺」訪問                  Exploring cultural heritage in the elderly couple.      


 3月彼岸過ぎの中村宗平館跡「殿の窪」を漸く探し尋ねた足で、宗平の四男友平の継承地、二宮の地の館跡「知足寺」を訪問。大体の土地勘はあったので、直ぐに発見できた。「知足寺」は吾妻山の西部、二宮町二宮にあり、駅から500m程の、徒歩でも十分歩ける場所にある。


知足寺本堂
 四男友平が何時、継承したかはっきりしないが、友平は平安時代末期から宗平から継承したらしい。その後も、その子友忠や孫の光忠の名は、しばしば吾妻鏡に見えているという。友忠は曽我兄弟物語に出てくる兄弟の姉と婚姻していることから、また、友忠の子、光忠も頼朝上洛の随兵として出てくる。友忠は曽我兄弟の異父兄弟の姉(花月尼)と結婚している。

知足寺山門
 「相模武士」(湯山学著)によれば、二宮荘は清盛が太政大臣になった仁安2(1167)年頃、藤原俊成の女(八条院三条:八条院暲子に仕えた)が異母姉妹に京極局から寄進された荘園であるという。また、二宮氏は川勾神社の社領を左右し、友平は川勾神社の宮司(神主)職を掌握していたらしい。
 
 二宮(川勾大名神)神社は延喜式でいう、位の高い古社であり、一宮が「国鎮守」に対し、二、三宮は「郡鎮守」であるから、相模国衙の有力な在庁官人であった中村宗平の子、二宮友平が神社と深くかかわったいたことは考えられると述べている。

知足寺は友平の建立ではなく、友忠の妻花月尼が曽我兄弟を弔うため建立したという。そこは、友忠の居館跡であった。塩海山花月院と号している。塩海は「しおみ」で、後、荘園化された二宮の公領「霜見郷」である。
 上記の事情については、ここでは、詳しく語れないので、後日、HP「ISEHARA・おもてなし隊の連絡帳」で報告したい。

曽我兄弟の墓石








地図URL
http://www.mapion.co.jp/m/35.2996711_139.2576469_8/v=m6:%E7%9F%A5%E8%B6%B3%E5%AF%BA/














2013年5月6日月曜日

 「八丁堀同心・与力組屋敷跡」へ遂に到達    Exploring cultural heritage in the elderly couple.                            

 前投稿記事と同じ日、正月に行き損ねた「八丁堀与力・同心組屋敷跡」の探索に向かった。手がかりは、正月に撮影した「地域地図」だけである。この案内地図は、亀島橋にあり、そこには「堀部安兵衛武庸の碑」が建ってり、例の堀部安兵衛、36人切りで有名な場所らしい。
 目印は、「京華スクエア」と言うビル。屋敷跡はその近くにあるらしい。もう一つは、東京駅八重洲口から八丁堀交差点を右に曲がること。しかし、実際は、一つ前で曲がってしまったらしい。途中にポリスボックスがあったので道を聞く。
 お蔭で、「京華スクエア」という小さなビルはすぐ発見できたが看板がない。うろうろしていたら、通りかかった初老の男性が「看板はあそこだよ!」と教えてくれた。「しかし、何にもないよ!」と言う。やはり、世間では屋敷跡の実物があると思っているらしい。
 そこは、何回も行き来した場所であるが発見できなかった。看板は背丈と同じ位置である。奉行所跡は壁やしたばかりだったので、目が下に向いていたのだ。人間と言うのは、事前の経験に左右されるらしい。気を付けよう。

横断歩道を越えた直ぐ右の建物が「京華スクエア」


現在地の文字から真っ直ぐ右へ向かう道が八重洲口

二つ目の「北町奉行所跡」発見              Exploring cultural heritage in the elderly couple.                            

 ゴールデンウィークの中日、天気も良かったので、靖国参拝もかね、細君に東京駅も見せたかったので、八重洲口にある二つ目の「北町奉行所跡」を探しに出かけた。
 大丸の「第1北町奉行所」の看板のある小さな入り口(ここ開くの?)のドアーを開け、あてずっぽうで歩いてゆくと、掃除の女性がいたので、尋ねると、「丸の内トラストタワー」の横だと教えてくれた。彼女は「何にもないよ!」と独り言のようにつぶやいていたがそんなことはない。彼女は「昔の姿」が残っていないよと言いたいらしいが、看板があれば十分。「江戸城石積み」の模型などもあり、看板も立派であった。「第1の場所」よりもわかりやすく、碑も立派である。しっかりと撮影し、大満足で、帰りがけ、彼女たちにお礼を述べ、勇んで、「八丁堀の同心・与力組屋敷跡」探索に向かった。
 なお、江戸期の地図などの詳しい情報は、次のHPで・・。(但し、10年前のHPなので、看板などは現在と違っています。    http://orange.zero.jp/kkubota.bird/machibugyousho.htm

 
 


江戸城外堀の石垣

 北町奉行所の東方には、寛永13年(1636)に築かれた江戸城外堀がありました。
現在この地域の外堀は、常盤橋門跡や日本橋川の護岸の一部などに石垣が残りますが、東京駅周辺は昭和30年代には埋め立てられ、今は外堀通りや交差点の名前等に名残を留めている程度です。
 ここに再現した石積みは、かつて存在した外堀をイメージしたもので、その一部には鍛冶橋門(東京駅八重洲南口)周辺で発見された堀石垣使用し、ほぼ当時の形で積み直しています。石垣石の表面には、築かれた当時の石を割った矢穴が見られます。

左側に「丸の内トラストタワー」。看板は右奥に進む


2013年5月5日日曜日

相模武士「中村党」の本拠地「殿の窪」へやっと到達。 Exploring cultural heritage in the elderly couple.                            

 3月の彼岸過ぎ、二宮町の細君の里の墓参りを兼ねて、準備を進めてきた岡崎義実の舅、中村宗平の館跡とされている「殿の窪」(小田原市小竹)の探索に向かった。ウォークで行きたかったが取りあえず場所の特定が肝心と思い、乗用車で向かった。事前調査によれば、「殿の窪」は小田厚の二宮インターから、小田厚を越せばすぐの所である。
 少し行き過ぎた所で、仕方なく農道に入る。道は細くなる一方。畑作業の気の良いお婆さんに出合い、看板があることを教えてもらい、ようやくたどり着く。看板の近くに駐車し、ビニールハウスの近くで働いていたお爺さんに話しかけると「あそこに墓もあるよ。」と教えてくれる。思ったより、楽しめた一日であった。
 詳しくは、次のURLを見ていただきたい。

http://www3.hp-ez.com/hp/magoemu/page27

杉林の辺りに墓石がある
看板とビニールハウス

 
 



2013年5月3日金曜日

『丸山城址公園(伊勢原市田中)』迄往復          Exploring cultural heritage in the elderly couple.                   

 ゴールデンウィークの中日、天気も良いので、買い物がてら、いつものウォーク気分で、自宅の馬渡から田中の『丸山城址公園』までウォーク。整備される以前には研修で行っていますが、整備後は行っていませんので、一度は行ってみたいと思っていた。
 途中、駅でコーヒータイムをしたり、弁当を買ったりしたが自宅を出てから50分ほどで到着。中央は円形の広場に整備され、子供連れの若いCoupleが遊んでいた。「ここに桜を植えれば名所になるぞ!」と言うと細君は「桜は植えてあるよ。しかし、引き抜かれて困っているらしいよ。」と言う。入り口にそんな看板があった。担当者は大事に植えた桜が3本引き倒されのがかなり残念だったらしい。しかし、嬉しい怒りである。

神宮寺住職の無縫塔群
あちこち動き回り、公園の一角にある神宮寺歴代住職の墓まで見学できた。写真は文道禅師の石塔で、この方は、高部屋神社の神宮寺(じんぐうじ)第14代住職で、江戸幕府の命を受け、蝦夷(えぞ)(現在の北海道)国泰寺(こくたいじ)の第5代住職として赴任し、7年の任期を勤め上げ、神宮寺に戻ってきましたが、明治元年の神仏分離令により廃寺となりました。公園とはフェンスで区切られていましたが鍵などかかっていない。粋な計らいである。帰りは、国道246号線に架かっている陸橋を渡り、高部屋神社をとおり、道灌の墓を見ながら帰宅。2時前でした。今年の道灌祭りのときには案内役ができそうだ。

詳しくは、次のHPで。
 
 
http://napoleone.my.coocan.jp/Kanto/Kanagawa/Maruyama/Maruyama.html



大山がよく見えた