帰りの車中で、私たちは
二つの教訓を得た。二つとも、帰りのフェリーで、大島の若い女性の話からである。この話はぜひブログにUPしてほしいとのM女史からの依頼もある。
朝7時頃の大島からのフェリーは通勤通学客で一杯である。その中に、昨晩大島復興イベントの協力者として集まってくれた若い女性がいた。彼女は、昨夜の顔とは違って、満面の笑みで私たちに手を振り、挨拶しながらフェリーに乗り込んできた。気仙沼にパートの仕事に行くのだという。
それから、気仙沼に着くまでの30分間、M女史が彼女と話し込んでいたらしい。降り際、「また、凄い話を聞いちゃった。車の中で話すね。」と報告してきた。その話二つが、私たちの教訓となった。
一つは、若い女性の父親の話である。彼女の父親は3年ほど前に亡くなったらしいが、亡くなる前、「最近、海の様子がおかしい!」と盛んに家族に話していたという。
「一部の海の色が違って見える。そこから、煙のようなものが浮かんでいる。最近取れる魚も変わってきた。」と話していたという。津波はそれから3年後やってきたという。彼女は「予兆があった」ことを告げたいらしい。しかし、地震学者はこう言う手の話をどう扱うのだろうか。歴史学者なら「古老の話」として、大切なデータとなる。しかし、自然科学者は数的なデータ以外は論外とするだろうか?地震学者がこの手の話を沢山集めて、「地震予報」のデータとしたら数字より、面白い結論が導かれるのではなかろうか?
教訓その1は、私たちは素人も、地震学者の数字だけでなく、ナマズの話のよう巷の話を沢山集めれば、予知知識にできるのではないか!?ということ。
二つ目は復興時、彼女の家は港の近くにあったが電気が通じたのは一番遅かったという。それも、街灯は来ているのに家庭には来なかったのだという。彼女は何回も、電話などで電気会社に連絡したが埒が明かなかったという。あるとき、工事中の作業員にそのことを話したら、「それは。そうだ!」と話に乗ってくれ、それから1週間後に、彼女の居間にも電気が来たという。
教訓その2は、「遠い役所の机からは何も見えない。現場に行かなければ真実は見えない」と言うことである。私たちも大島にやってきて、島を直接見ることの大切さを確認した。
最後に、もう一つ「大島の英雄の話」を・・。
」冊子をスキャンしてので、それで見てください。
昨年の帰りの船は、この話題の菅原さんの「ひまわり号」でした。
詳しくは、次のURLで・・・。
http://d.hatena.ne.jp/nmomose/20110411/tsunami
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菅原 進さん |