3月彼岸過ぎの中村宗平館跡「殿の窪」を漸く探し尋ねた足で、宗平の四男友平の継承地、二宮の地の館跡「知足寺」を訪問。大体の土地勘はあったので、直ぐに発見できた。「知足寺」は吾妻山の西部、二宮町二宮にあり、駅から500m程の、徒歩でも十分歩ける場所にある。
四男友平が何時、継承したかはっきりしないが、友平は平安時代末期から宗平から継承したらしい。その後も、その子友忠や孫の光忠の名は、しばしば吾妻鏡に見えているという。友忠は曽我兄弟物語に出てくる兄弟の姉と婚姻していることから、また、友忠の子、光忠も頼朝上洛の随兵として出てくる。友忠は曽我兄弟の異父兄弟の姉(花月尼)と結婚している。
知足寺本堂 |
「相模武士」(湯山学著)によれば、二宮荘は清盛が太政大臣になった仁安2(1167)年頃、藤原俊成の女(八条院三条:八条院暲子に仕えた)が異母姉妹に京極局から寄進された荘園であるという。また、二宮氏は川勾神社の社領を左右し、友平は川勾神社の宮司(神主)職を掌握していたらしい。
二宮(川勾大名神)神社は延喜式でいう、位の高い古社であり、一宮が「国鎮守」に対し、二、三宮は「郡鎮守」であるから、相模国衙の有力な在庁官人であった中村宗平の子、二宮友平が神社と深くかかわったいたことは考えられると述べている。
知足寺は友平の建立ではなく、友忠の妻花月尼が曽我兄弟を弔うため建立したという。そこは、友忠の居館跡であった。塩海山花月院と号している。塩海は「しおみ」で、後、荘園化された二宮の公領「霜見郷」である。
上記の事情については、ここでは、詳しく語れないので、後日、HP「ISEHARA・おもてなし隊の連絡帳」で報告したい。
地図URL
http://www.mapion.co.jp/m/35.2996711_139.2576469_8/v=m6:%E7%9F%A5%E8%B6%B3%E5%AF%BA/知足寺山門 |
二宮(川勾大名神)神社は延喜式でいう、位の高い古社であり、一宮が「国鎮守」に対し、二、三宮は「郡鎮守」であるから、相模国衙の有力な在庁官人であった中村宗平の子、二宮友平が神社と深くかかわったいたことは考えられると述べている。
知足寺は友平の建立ではなく、友忠の妻花月尼が曽我兄弟を弔うため建立したという。そこは、友忠の居館跡であった。塩海山花月院と号している。塩海は「しおみ」で、後、荘園化された二宮の公領「霜見郷」である。
上記の事情については、ここでは、詳しく語れないので、後日、HP「ISEHARA・おもてなし隊の連絡帳」で報告したい。
曽我兄弟の墓石 |
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