山口家には2万点近くの歴史資料(古文書等)が残されていて、そう言った財産を「財団雨岳文庫」が保有すると共に、建物等の保全・管理、資料等の調査・研究、研究成果の発表等も財団が行い、活用に関しては、NPO法人「雨岳文庫を活用する会」を立ち上げ、生涯学習活動や歴史研究に供してきました。
(以上、HP雨岳文庫を活用する会」
http://www.ugakubunko.com/htdocs/?page_id=22より引用)
従って、講座は、「山口家の各事業に参加や手伝いでき、「山口家について解説できるスタッフの養成」が主内容で、3日間設定され、6講座開設されていました。(写真参照)
今日は、その最終日で、折に触れ、御当主、山口匡一氏の穿った解説や文書・所蔵品の特別公開もあり、滅多に無い有意義な一日を送らせて頂いた。
私も、安政年間、上粕谷の地代官であった山口家当主作助の江戸出府時の行程をたどる「ウォーク」の仲間であるので、喜んで「解説ボランティア」をさせていただきたいと申し込んできました。
剣術の免許皆伝書を見せてもらう |
秘伝の巻物を解きはじめる 測量皆伝の巻物もあるとか!? |
スクリーンには作助諸用控えが・・ |
また、今回の講座に刺激され、宿場や峠の茶屋について、ネットで検索し、以下のような、なんとなく納得できる内容の解答を引き出した。皆さんのご指導を頂きたい。
<田村休茶代(32文=800円)の件>「ウィキペディア」より
◆「茶店」=交通手段が徒歩に限られていた時代には、宿場および峠やその前後で見られ、これらを「水茶屋(みずぢゃや)」「掛茶屋(かけぢゃや)」と言い、街道筋の所定の休憩所であった。立場にあれば「立場茶屋(たてばぢゃや)」と呼ばれていた。また、茶の葉を売る店は「葉茶屋(はぢゃや)」と言う。店先では、縁台に緋毛氈や赤い布を掛け、赤い野点傘を差してある事も多い。
◆「水茶屋」の項=『守貞漫稿』によれば、水茶屋では、最初に、1斤の価6匁くらいの茶を茶濾の小笟に入れ、上から湯を注したものを出し、しばらくいると、別に所望しなくても塩漬の桜か香煎を白湯に入れて出し、客の置く茶代は、1人で100文置く者もいるし、4、5人で100文あるいは200文置くこともあるが、1人の場合、標準は24文から50文の間であるという。
「YAHOO知恵袋」質疑応答
◆質問=江戸時代に茶店でお茶1杯飲むといくらかかるのですか?まあ街中と峠では違うのでしょうが、また時代によっても、わかる範囲でお願いします。
◆回答=江戸時代の小額通貨は一文、四文、百文で、十文銭はあまり流通していませんでした。
このため、代金は四文の倍数が多いのです。
茶店はお茶1杯いくらというのでなく、腰掛ける場所(床机)、手洗いを貸す、煙草盆を出す、弁当を使わせる、といったサービスを提供していました。一休みして最低四文置いていたようです。
ほかの物価としては団子一串四文、そば十六文、あんま三十二文などです。
なお、江戸では夏になると担ぎの水売りが出て、立ち飲みで茶碗一杯一文だったそうです。
このため、代金は四文の倍数が多いのです。
茶店はお茶1杯いくらというのでなく、腰掛ける場所(床机)、手洗いを貸す、煙草盆を出す、弁当を使わせる、といったサービスを提供していました。一休みして最低四文置いていたようです。
ほかの物価としては団子一串四文、そば十六文、あんま三十二文などです。
なお、江戸では夏になると担ぎの水売りが出て、立ち飲みで茶碗一杯一文だったそうです。
「追加情報」
翌日、作助ウォーク資料作成者の村上氏より、次のような追加情報を頂いた。
◆往時の旅人の旅程は1日40㎞。それに対して、きわめて粗末な食事内容でした。(茶店などで)途中でのエネルギー補給は欠かせません。
箱根八里32㎞に13軒の甘酒茶屋があったといいます。甘酒8文(200円)、大福餅4文(100円)、串団子4文(100円)くらいだったようです。
職人の1日の手間賃300~350文(7500~8750円)。甘酒8文、大福餅4文も、ふつうの庶民には、馬鹿にできない値段だったと思います。
しかし、間食は贅沢ではなく、必要経費だったと思われます。
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