散策個所は浄発願寺、大友皇子の墓、石雲寺、浄発願寺奥の院等。この辺りは講習会の初年度、もっと広い範囲で、散策したことがあるが今回は気付かなかった史跡に巡り合った。
その1。右の写真。大友皇子の墓からヤブ地を右奥に進むと10基ばかりの墓石に出合う。
3本の塔婆があり、「高遠出身石工先亡諸精霊供養」と書いている。高遠の石工の墓地だった。始めてみるので新鮮で、感動した。この辺りは石雲寺の領地だったらしく、今も石雲寺が供養していると云う。
その2。右は石雲寺境内入り口右手の御堂の写真。中に祀られているご神体に「石」がある。びっくりした。佛寺での石尊信仰など聞いた事が無い。咄嗟に石雲寺の山号が「大山寺」と同じ「雨降山」である事に思い当たる。
その2。右は石雲寺境内入り口右手の御堂の写真。中に祀られているご神体に「石」がある。びっくりした。佛寺での石尊信仰など聞いた事が無い。咄嗟に石雲寺の山号が「大山寺」と同じ「雨降山」である事に思い当たる。
側にいた市文化財課の諏訪間氏に問いかけると、大山寺と「石」の獲得で争った経緯を聞いた。門前の碑にも書いてあった。
「雨乞い信仰に関係して、雨降石がご神体の石尊社が境内にある。江戸時代の初め、大山寺との雨降石の争奪戦で石雲寺本堂が大山寺の宗徒に焼かれたと云う」とある。雨乞い信仰は大山や日向を中心とした山伏(修業僧)の中心だったのだろうか?
その3。前回は気がつかなかったが、奥の院に導く参道に、多くの「神仏分離運動」の跡を見た事である。
上の写真は山門前の立像であるが皆、頭部を落とされている。
下の写真は旧奥の院跡辺りの仏像であるが一躰、落とされていた。
途中の坂道の仏像の殆どが頭部が無い。どなたかが手ごろな石を載せて頭部代わりにされておられる。
伊勢原における「神仏分離運動」の実際は、太田道灌の墓がある洞昌院の本堂前に集められていたのを見た事があるがこれ程の事を実感し
たのは初めてである。その徹底した過激さに驚かされた。東北の宗教 界では見られない事である。
石雲寺で見たように大山寺との関連であろうか。
とすれば、権田直助を先頭とする御師たちが実行したのだろうか?しかし、それにしても過激である。
大山寺は阿不利神社を包含していたから、強硬策の必要性も分るが浄発願寺は神道と関係はないと筈である。山伏間の関係であろうか?
在家僧侶の私には見るに忍びない感がある。と云って、権田直助を恨む気もない。時世である。
しかし、その過激さの正体を調べてみたい衝動に駆られている。
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