2013年7月6日土曜日

3回目の大山登頂②<追加新情報2つ>          16丁目の碑の石工と来迎谷の浮世絵       

  3回目の大山登頂①で、当ブロガーの新情報を写真で紹介したが、資料収集や調査結果待ちでUPできなかった大きな情報が2つ残っていた。
 一つは「富士見台(来迎谷)」から富士山を描いた広重の浮世絵。

富士見台(来迎谷)この日は
霧で富士山は見えない。
相模大山来迎谷(広重)
この場所から富士山がよく見える事から、「見晴台」と思っていたが広重が「浮世絵」を書いているなど全く知らなかった。迂闊にも、「説明板」を全く読んでいなかったという失態のためである。
 



  二つ目は、大山山頂まで28丁あるがそのちょうど中腹、16丁目(992m)、蓑毛道との追分道(分かれ道)にある碑の石工の件である。
 傍らの説明板には「十六丁目追分の碑。この碑は一七一六年に初建され、総高三米六十八センチメートルもあり、江戸期の大山信仰の深さをしめしている。この石は麓から強力たちが担ぎあげた。大山観光青年専業者研究会」と記されている。
 1716年は享保元年で、紀州藩主吉宗が将軍になり、享保の改革が始まった年である。約300年前となろうか。これは大山信仰の古さを物語っている証拠となろう。
 
 その後、大山ガイド誌「相模大山」の著者、宮崎武雄氏が送信して下さった伊勢原市教育委員会発行の「伊勢原市内の大山道と道標」の記事によりますと、
 ①宝暦十一(1761)年辛巳六月初建
 ②安永五(1776)年丙申六月再建
 ③寛政十一(1799)己未歳六月吉祥日建焉
 ④昭和十(1935)年十月再建
となっています。
 一寸待てよ!この資料では、初建は宝暦十一年となっている。宝暦年代と言えば、将軍は家治の時代で、田沼意次が世の中を握っていた頃である。看板との年代差は約50年。どちらが正しいのであろうか?
 私は立て看板の1716年と言うのは1961年の61を16と書き間違えただけのことではなかろうかと思う。したがって、伊勢原市の記事が正しいとしたい。
 最後に「昭和10年再建」と刻まれているので、当然、この碑は昭和10年に建てられたものであろう。
面白いのは、「寛政11(1799)年巳未歳吉祥日建」という刻字。これは、同時に刻まれている「石工 霊岸嶋南新川 栗谷勘兵衛」は寛政期、霊岸嶋南新開(川)に居住していた石工であり、
「埼玉県上尾市の市登録有形民俗文化財「馬喰新田の寛政十二年銘庚申塔」に書かれている石工と同じ名で、建立日「寛政十二年十二月吉日」とあるので、大山追分の碑と同じ頃、刻んだものであろう。
 「霊岸嶋」は八丁堀近くの新開地で、現在は中央区霊岸嶋新川辺りである。
 この件については、上尾市教育委員会のHP(次のURL:馬喰新田の寛政十二年銘庚申塔を見てほしい。   http://www.city.ageo.lg.jp/site/iinkai/064110111305.html
 
 
 私は様々考察した結果、昭和10年再建するとき、その歴史の古さを残すために、寛政11年の碑文もそのまま刻んだのではなかろうかと推理した。
 先述の宮崎氏はこれとは違い、メールで、次のようなコメントを寄せている。
 「ただ、なぜこんなに何回も建て直したりしたのかは、未だに不可解です。全部そう取り替えをしたのですかね。
 こんな重いものを・・・。壊れたのなら近辺に前の残骸が少し残っていてもいいと思うんですけどね?
 石はどう見てもすごく古そうですしね? 何かありそうに見えます。昭和新設再建なら神仏分離で「石尊大権現大天狗、小天狗」は使わないと思うんですけどね。
 刻字もこんなに摩耗してないでしょう。石塔もこんなに白くカビが生えないでしょう。たとえ明治でももっと新しいと思いますけどね。
 私はですね、すぐ疑問に考えてしまうんです。多分倒れたのを建てなおした程度だと思うんですけど。私の考えあたってるような気がしますが。いかがですか? 」 
 
 
 宮崎氏は、「寛政十一年」の文字が残っているのは、意図したのではなく、寛政の文字がある倒れた碑を、「昭和10年再建」の新たに刻字して、立て直したと推理する。文字や苔の生え方、碑の古色、刻字の摩耗具合などを考えるとその方が納得できると言う。そうかもしれない。
  確かに、刻字を同じ様に彫るなどと言う面倒なことはしないような気がする。最後の昭和期のように、「〇〇年再建」と刻めば十分に後世の人々に伝わるのだから・・・。
 もう一度、実物で、大正か昭和期や江戸中期の碑等と16丁目の碑と二つを比較検討し、何か証拠をつかみたいものだ。
 
 それにしても、長さ約4メートル、約30cm四方の石柱を何人の強力で、大山の中腹まで運んだのであろうか?物凄い組織力とリーダー性が求められたであろう。
 江戸・霊岸嶋からは船便があるから、須賀港や田村の渡しまで運ぶのは容易であったろうと思われる。江戸城石垣つくりに運んだ石のことを思えば、そう難しくはなかったと思われるからである。
実際に、「七五三引」の大山鳥居建設のため、四国から田村経由で、石柱を運んだという「山口家」の古文書を読み終わったばかりである。
 
 しかし、大山を運び上ったその思いには、看板に書かれているように、江戸期の大山信仰の篤さが伝わってくる。






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