当サイトブロガ―は、来年(2012年)の2月頃、伊勢原市岡崎にある「さくらの家福祉農園」の利用者と職員に、地元にある「岡崎城」の話をする事になりました。
「岡崎城」は平塚と伊勢原の岡崎地区にまたがる大きな地域で形成されており、さらに、その出城と目されている所が「城所」にあります。
「城所城」と云い、浄心寺の背後の城所山の上にあったと云う事です。
「城所城」と云い、浄心寺の背後の城所山の上にあったと云う事です。
この裏山は昭和41(1966)年に新幹線設置の盛土の採土により切り崩されて、「城所城」の遺構は壊滅しましたが、浄心寺の墓地の一部に土塁らしきものが見られると書いているサイトもあります。しかし、浄心寺のご住職に伺った所、そう云う事実はなく、土塁とされている盛土はずっと後世のものだそうです。
もともと、「浄心寺」は観應年間(14世紀)、平安時代に権勢を誇った藤原氏の末裔が館を築いた城所氏の館跡に建立されたと言われているが良く分かりません。今後、ご住職に教えを乞いたいところです。
もともと、「浄心寺」は観應年間(14世紀)、平安時代に権勢を誇った藤原氏の末裔が館を築いた城所氏の館跡に建立されたと言われているが良く分かりません。今後、ご住職に教えを乞いたいところです。
と云うのも、浄心寺は7年前からブロガ―の兄者の菩提寺となり、その関係で、当寺が地元の方々に開いておられる写教会のお仲間に入れて頂き、在職中の3年間の管理職時代に逝ってしまわれた11名の子どもたちの供養のため、一霊100枚、合計1100枚の写経を発願、今日でやっと310枚目。寿命まで、残りの写経を成就させるため、邁進させて頂いている大切なお寺なのです。
休憩時のお茶の席で、写教会の皆さんの話によりますと「平塚市城島」という地名はもともと「木島」という文字だったそうです。とすれば、「城所」も「木所」で樹木が繁栄していた小山であったとも云えそうです。地元のご婦人方の、岡崎城に関する新情報も入手できました。
岡崎城の事は来年掲載します。
11月4日、いつものように写教会の例会に参加させて頂き、ご住職と写教会の皆さんにお願いし、写教会の様子と浄心寺の裏手辺りを撮影し、uploadさせて頂きました。
浄心寺の近くにある貴船神社には、頼朝が正室政子の、安産祈願を命じたと言われる三面大荒神があります。これは知りませんでした。
先日、平塚市北豊田の新幹線近くの荒れた木立の中に、岡崎義實の宿敵、大庭氏の墓跡を見つける等あり、岡崎城の調査研究には、平塚市史に深く立ち入る必要を感じました。
写真説明
1枚目☛城所城要図(中世城郭事典より転載)
2枚目☛浄心寺の裏手。城跡の小山が採土された所。
3枚目☛浄心寺の墓地。上部に見える丘が続いていたらしい。
4枚目☛写教会の様子(この日は参加者が4,5名少なかった。)
5枚目☛貴船神社(三面大荒神社)
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