標記、平成22(2012)年第1回目のツアー終了後から、ご都合で参加できなかった知人の要請で、第2回目を計画していたが、それから2年後の昨日(平成26年6月15日)、ようやく、実現した。
昨日は、すでに2年前とは違い、圏央道の延長により、1時間と近く所要時間が短縮されたお蔭で、長時間の見学が可能になり、その分、お世話になった方には申し訳ない気持ちです。
と言う事で、今回もいろいろな方にお世話になりましたので、長目を承知で、一番効果的なこのブログで報告させて頂き、関係者の方々に、謝意を申し上げたい。
なお、毛呂山町の町田氏のブログ「gakenchi」でも詳しく報告されています。
http://blogs.yahoo.co.jp/urayamagakenchi/11618919.html
ツアーキャラバンの一行は、馬渡を朝6時に2人乗り、出車。沼目で3人合体。計5人で129号線から、圏央道へ。日曜日の早朝は車の進行も絶好調。毛呂山町歴史民俗資料館には8時頃到着してしまった。東京から参加する電車組の小野氏、出版社「風人社」の編集員小菅氏、さらに今日のメイン案内役、毛呂山町郷土史家 町田美雄氏との待ち合わせ期間、9時まで、近隣のドライブ散策。
9時半頃、全員集合。学芸員の佐藤さんを交え、朝の集会と名刺交換。この時、初めて、町田氏が1級建築士さんで多忙の時間を割いてくださったことを知った。町田氏とは大山情報館の「メル友」一度、下神崎荘でお会いしただけで、御顔は分からなかった。その点では小野さんとも、大山情報の「メル友」で一度宮崎武雄氏から紹介いただいた程度であった。
今回、資料館の特展は「板碑」であった。昨年の発掘で大量の板碑が出土したそうである。秩父に近い埼玉県は板碑の宝庫であることは、20年前の埼玉県立博物館の見学で知っていたが展示されていた板碑は埼玉で1,2を誇る3m以上の板碑であった。私たちは「板碑」の種字読みなどで盛り上がった。
二つ目は「流鏑馬」である。伊勢原の「道灌祭り」的なイベントとして、毎年2回行われていると言う。
この「流鏑馬」行事を何十年と世話されてきたのが町田氏で、「流鏑馬」展示前で、飛び出す言葉を抑えきれずにガイドする町田氏に、圧倒されつつも、聞き入った。驚いたことは騎乗するのは子供達であると言う事であった。町田氏によれば、これは珍しいことであるが元服の行事と考えて頂ければ納得できるでしょうと言う事であった。
3つ目は、はやり、「権田直助」である。毛呂山町では2年前の「没後125年の企画展」から、直助の功績を再認識し、毛呂山町の偉人に一人に加えている。確かに、権田直助については、草莽の志士として、西郷隆盛と組んだ武力闘争の部分もあり、また、明治政府の神仏判然政策の時期の活動などの、人によっては語りにくい部分もあるが、大山阿夫利神社の祠官となって大山の地に移住してからの、国文学者として著作本や、また、神道布教のために書いた「神教歌譜」の功績を見直したと言う。確かに、明治20年、権田直助が大山の地から出版した「国文句読点考」は、現在の句読点学の第一人者大類雅敏先生から「句読点学のバイブル」と評価されている。また。「神教歌譜」は東大教授で、ドイツからやってきた讃美歌研究者のヘルマン先生により、「日本の唱歌」の出発点と報告されている。
これらを総合し、志士の部分は大声で語らずとも、文章に基礎である「句読点」については、もっと誇っても良いのではないかと判断。その年から小学校6年生の副読本に掲載。また、学芸員がパワーポイントを作成し、出前授業もし始めたと聞いた。そのパワーポイントは私も所有しているので、是非、伊勢原市民にもみて欲しい。
私自身、その年、毛呂山町広報室から「いせはら歴史解説アドバイザー」のライセンスを所有する伊勢原住民としてのコメントを求められ、「当面、負の部分は小にして、傑出した部分を大いに語りつぎ、彼の偉業を先ず、知らせるべきではなかろうか。」という、拙い一文を寄せた。
肖像画の裏に書かれた文字 (「生死堺」慶応元年サツマ屋敷 直助)と書かれている。 西郷の呼びかけに立ち上がった頃の写真であろう。 |
それが、広報誌によって全町に伝わり、毛呂山町における、直助研究文の象徴的な説として、引用も求められるようになっている。
生誕地でもなく、神仏判然令で何かと話題の多かった伊勢原では、同じような立場で語るのは難しいかもしれないが、大学の研究による評価にもう少し目を向けても良いのではなかろうかと思っている。一部の市民の間とはいえ、伊勢原のシンボルでもある阿夫利神社の境内に座像が建立され、墓地が公園化されているよな著名な権田直助の「誇れる功績」を、負の部分だけで語り継がれないのは、少し狭量では無いだろうか。
伊勢原市民が早く、このことに気が付き、「権田直助」の名が市民の間に知れ渡るよう、今後も努力を根気よく続けて行きたい。
なんでも屋で、何にでも反応する「ISEHARA・おもてなし隊」と言う噂も伝わっているらしいが元々の目的が噂のとおりですので、問題なく、この噂がもっと広がって欲しいと思っている。(写真はクリックして下さい。)
今日はここまで。次回は、石尊山と不動堂の件を報告します。
自己紹介 |
「山女」以上の「大山女」だそうです。 |
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