毛呂山町歴史民俗資料館前で記念撮影をし、次の目的地、「石尊山」に向かった時はもう11時近かったと思う。
町田氏の案内で、石尊山と納め太刀のある不動堂に直行。町田氏はいろいろとお手配を下さったようで、かなり急いでおられたが、私たちの体力が追いつかず、山登りに時間を取られてしまった。
毛呂山町に石尊山と納め太刀のある不動堂の情報は町田氏のメール情報である。
元はと言えば、大山の石尊信仰を勧進した200m級低山の石尊山は、関八州に12か所存在すると言うウエブサイト情報を5年前に知り、3年前にはその内の一つ、茨城県日立市の石尊山を、地元の講中と連絡取り合い訪問する予定であったが3・11の東日本震災の被害があり、頓挫していたことがあり、毛呂山町にも情報提供をお願いしていたからでもある。そんな時の石尊山情報なので、石尊山訪問第1号として早く訪ねて見たかった。
サイト情報によれば、各地に勧進された石尊山は200m級の低い山で、かつては大山講中に守られて、管理も行き届いていたが今は荒れ放題、藪の中にあり、地元の一部の人しかわからないところも多いと言う。
毛呂山町の石尊山はその典型であったらしい。直助の生地、毛呂本郷から車で10分ほどの秩父山地に近い低山である。この辺りは、現在、金鳩山寺が建っているが、かつての支配者「毛呂氏」の館跡でもあり、緑に囲まれた山地である。不動堂の見える案内板の辺りに駐車し、滝を撮影した後、5m程上の不動堂に到着。嘗て送って頂いた写真のとおり、壁面に3本の太刀が掛けてあった。驚いたことに、御堂には鍵は無く、扉の開閉は自由のようだ。御堂に安置されている「お不動さん」も拝むことができた。
ここから、山頂の石尊社まで20分ほどかかり、到着。荒れ果て、倒壊した石碑を立て直したと言う山頂には、その経緯が書かれた看板が立っていた。そこには、町田氏と同道していた紫藤さんと言う若い女性が待っており、案内板の説明をしてくださった。聞けば、この石碑を立て直した病院長(今は亡くなっている)の現病院に勤務されている薬剤師さんで、大山を何度も訪問されている「大山ガール」という。この看板の関係者と言う事でガイド役を依頼したと言う町田氏の「粋な計らい」であった。しかし、私たちも、風人社さんも、「大山好き」の若い女性の出現に、大山に新しい風と変革のきざしを発見し、大喜びである。
石碑には「富士仙元大菩薩」と刻まれている。案内板には、この石碑は富士山の修験道を中心とした浅間神社を勧進したという内容に見える。そのことに、鋭く気が付いた原氏は「この案内板には、大山と言う文字が無いが・・・?」と質問。「石尊山と言うのは大山の祭神なので、大山の石尊を勧進したとこには間違いないのではないだろうか。大山信仰より富士山信仰の方のあこがれが大きいので、このような表現になるのではないかと思う。」と会話したが、私自身しっくり来ない。どなたか、明解に応えてほしい。
石碑のある山頂の西側は開けた空間があり、眼下にゴルフ場、その向こうの東側は秩父山地である。大山はその一角の方向だと言う。西側はすっかり開けて、スカイツリーははっきりと見える。神奈川では経験できないパノラマである。
一同、と言うよりこのツアーの企画者だけかもしれないがすっかり興奮したが次の予定がると言う町田氏の促しで山を下った。
その下りの話題が「高林謙三」であったので、次回、3回目の話にしたい。
正面にスカイツリーが見える |
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