昨日、本ブログに掲載した大山登山の動画(修験装束で大山登山をしている高尾山講中の皆さんの様子)をご覧になり、昨年、知り合った東京の小野さんと言う方から、次のようなメールを頂いた。
彼は、とても、好奇心と体力の旺盛な方で、様々な情報を寄せていただき、何かにつけ、心強い仲間のような存在になっています。◆以下、その時の小野さんのメールです。
先般、貴ブログ「神奈川・伊勢原・大山情報館」で、高尾山講中が大山参詣をする様子を見ました。
そのことに関する事柄を調べているうち、高尾山には富士信仰があって、浅間神社に参詣した足で富士山に詣でて最後に大山に向ったこと、高尾山中に相州大山につながる大山みちがあったことなどがわかりました。先日(30日)、高尾山の浅間神社と修験道場跡、大山みちに架かっていたと云われる大山橋を確認するための現地調査に行ってきました。
そんな折、昨日、いいタイミングで、江戸町民による富士講中が、高尾山、富士山、大山に参る様子についての情報が書籍から得られました。
ご参考になれば・・と思い、調査内容を簡単にまとめ、添付しました。
貴ブログの情報が、大山と高尾山の関係を探るきっかけとなり、いい勉強をさせていただきました。
東京都世田谷区 小野【添付ファイル①】
(高尾山が富士山の前立ち、大山が後立ち信仰)
富士山を霊山とする講である。(中略)
富士講の場合も毎年その年の代表が富士山に登り、みんなの御札をもらって帰ってきた。
旅費としては、1両かかった。そのお金は講のメンバーが出してくれた。ただし実際には2両かかったらしい。みんなへのお土産に1両必要だったのである。それは自分で用意した。
驚くのはその行程で、朝江戸を立ち、夕方に八王子もしくは高尾山の麓に着き、泊まる。翌日高尾山に登りお参りをする。高尾山はいまでも修験の山だが、ここが富士山に行く道筋の最初に登る霊山だった。修験の修行の旅だから歩きやすい街道をいくわけではない。霊山から霊山へと峰を歩いてゆくのである。そうやって富士山までたどり着き、登頂した後、帰りは丹沢に抜けてくる。最後にお参りする山は丹沢の大山である。その日は神奈川県の厚木あたりに泊り、翌日には江戸に帰ってきた。この行程で、1週間で帰ってきたというのだから、当時の人達の足の強さには驚くほかない。』
~内山節「共同体の基礎理論」第5章都市型共同体の記憶から一部を転載~
【添付ファイル②】小野さんのウォーク行程と写真
◆平成26年5月30日(金)晴れ
<10時50分~13時50分>歩行距離 7.1km(①3.8km、⑥3.3km)
<高尾山登山口>
自然研究路1号路~浄心門~高尾山薬王院(本堂・本社・奥の院)
自然研究路1号路~浄心門~高尾山薬王院(本堂・本社・奥の院)
~浅間神社~高尾山山頂~自然研究路6号路~大山橋~高尾山修験
道琵琶滝水行道場~岩屋大師~<高尾山登山口>
●浄心門(扁額に「霊気満山」)を入ると左側に神変大菩薩
(役小角=天狗名は法起坊、修験道の開祖)を祀る神変堂(じんぺんどう)
がある。治病に御利益とある。
(役小角=天狗名は法起坊、修験道の開祖)を祀る神変堂(じんぺんどう)
がある。治病に御利益とある。
●高尾山薬王院 本尊・飯縄(いいづな)大権現(本地 不動明王)
開山・行基、中興・俊源大徳
開山・行基、中興・俊源大徳
●浅間神社 室町時代に富士浅間神社を勧請したと伝わる。
祭神 木花之咲耶姫、御神体 白幣
祭神 木花之咲耶姫、御神体 白幣
●江戸町民は、高尾山浅間神社に詣でた後、相州大山に遥拝したとの
伝えがあり、高尾山中に大山みちの一部が残っている。
大山橋はそれを裏付けるものである。
伝えがあり、高尾山中に大山みちの一部が残っている。
大山橋はそれを裏付けるものである。
【写真は貼付ファイル②より抜粋】
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